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アイアムサム知能

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 みなさんは、職場で「なんでギスギスしちゃうの?」と思ったことはありませんか?特に、医療の現場でギスギスしてコミュニケーションがうまくいっていないと、取り返しのつかないことになることがありえます。ギスギスするのを、どう考えたらよいのでしょうか? そして、どうしたらよいのでしょうか?

 これらの疑問を、今回、2001年の映画「アイアムサム」を通して、知能という視点で、みなさんといっしょに考えていきたいと思います。


知能―ものごとを理解し判断する能力

主人公のサムは、コーヒーショップで働きながら、1人娘のルーシーを育てています。しかし、彼は、一目でとても幼く見えます。彼の目付きや顔付きは締まってはいません。手付きや立ち振る舞いは機敏ではありません。話すと、のんびりとしていて、その語彙(ごい)は決して豊かではなく、まとまりよく伝わらないことが多いです。サムがこのように幼く見える理由は、サムの知能が7歳程度だからでした。

知能とは、ものごとを理解し判断するための知的な能力で、生きていくために必要なものです。この知的な能力の目安として、実年齢に対して、精神的な年齢(精神年齢)があります。これが、知能テストによってはじき出される知能指数(IQ, intellectual quotient)とつながります。知能指数、精神年齢、支援のための診断を表1に示します。この表からサムは、中等度知的障害という診断が当てはまります。知的障害は行政で使われる用語で、学問的には精神遅滞という用語が使われています。

サムには知的な制限(障害)があります。しかも残念なことに、ルーシーの母親はルーシーを生んですぐに出て行ってしまいました。そんな中、彼は障害者枠で仕事に就き、一生懸命に働きながら、男手一つで育てようとします。そして幸運にも、隣人のアニーや仲間たちが助けてくれたのでした。こうして、彼は、できることに限りがありながらも、周りに支えられながら、ルーシーに溢れるばかりの純粋な愛情を注いでいます。そして、真っ正直に素朴にそして幸せに暮らしてきました。

 

1 知能指数、精神年齢、診断

知能指数

精神年齢

診断

85IQ

成人

正常知能

70IQ<85

中学生

境界知能

60IQ<70

高学年の小学生

軽度知的障害

50IQ<60

中学年の小学生

35IQ<50

低学年の小学生

中等度知的障害

20IQ<35

幼稚園児

重度知的障害

IQ<20

乳幼児

最重度知的障害

 


障害を持つ家族の存在―人の弱さや心の痛みを鋭く感じ取る優しさを育む

 ルーシーは、物心がつくと、父親の障害に気付きます。そして、「パパは、ほかのパパとは違う」「でもいいの、私は幸せ」「だってほかのパパは遊んでくれない」と彼女の方が大人びた考え方をするようになっていきます。

 小学校に入学してすぐの授業参観日、ルーシーが蝶の発表をします。暗記していた内容を一部忘れて困った瞬間、サムは「たくさんあって、覚え切れないよね」と全員の前で話しかけ、温かく見守ります。一方、次のクラスメートのコニーのクモの発表では、彼が言い間違えたら、彼の父親は厳しい表情ですかさず全員の前で訂正し、「どうした!勉強しただろ!」と叱りつけます。すると、コニーは「父さんが書いたんだろ」「僕はハムシをやりたかったのに」と悲しげな表情で言い返します。

このシーンで、ルーシーとコニーの親子関係がとても対照的であることが分かります。サムは、ルーシーに対して、決してけなさずに共感し、彼なりにフォローする姿勢を持っています。これは、周りから助けられていることで、相手を感謝し尊敬する姿勢を常に持っているサムならではのものです。サムは、ルーシーをも、自分の分身としてではなく、尊敬する一人の人間として見ています。一方、コニーの父親はコニーを自分の分身、もっと言えば所有物として完全に支配し、自分の思い通りのやり方を押し付けていることが分かります。

サムの無条件の愛情によって、そして障害のあるサムそのものの存在によって、ルーシーには人の弱さや心の痛みを鋭く感じ取る優しさ(共感性)が育まれていることが分かります。一方、コニーの父親は「私の言う通りにするなら愛する」という条件付きの愛情を押し付けることによって、コニーが人との勝ち負け(優劣)ばかりを気にする自己中心的な性格に歪んでいくおそれも描かれています。

 

2 親としての接し方の違い

 

サム

コナーの父親

愛情は?

無条件、共感的(尊敬)

条件付き、支配的

子どもに育まれるのは?

人の弱さや心の痛みを鋭く感じ取る優しさ(共感性)

勝ち負け(優劣)ばかりを気にする自己中心的な考え方

 


家族の障害による葛藤―揺らぐ自尊心

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しかし、ルーシーが7歳の誕生日を迎える頃に、彼女の心は揺れていきます。彼女は勉強ができるのに、勉強をすることを拒み始めたのです。その理由は、自分の知能が父親のサムを上回ってしまう日が近いことに気付き、自分をサムに合わせようとしていたからでした。ルーシーが描いた「家族との時間」というテーマの絵が全てを物語っています。その絵には、ルーシーが自分より小さいサムを引っ張っていたのでした。


 また、コニーは、サムの違和感に気付き、「君の父さんは障害があるんじゃない?」「君も?」とからかいます。この時に初めてルーシーは他人の目に目覚めるのです。その後、ハロウィーンパーティで、大の大人のサムが小学1年生のクラスメートたち以上に無邪気にはしゃぎます。その様子にクラスメートたちが笑っている状況をルーシーは恥ずかしく思います。周りから父親がどう思われているかという葛藤によって、ルーシーの自尊心は危うくなっているのでした。そして「本当の親じゃない」とコニーに行ってしまうのでした。



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その後、ルーシーのサプライズ誕生パーティーを企画したサムは、コニー親子を含め、多くのクラスメートたちを家に呼びます。ところが、ルーシーが現れる直前に、サムをバカにしていたコニーは、「バレバレだよ」と白けたことを言います。サムが「そんなこと言うなよ」「隠れてよ」とコニーに触れたところ、「息子を離せ!」と過剰反応したコニーの父親がサムを突き飛ばします。その瞬間に、ルーシーが「あら、パパ!」と言って現れます。さらに追い打ちをかけたのは、コニーが「何がパパだよ、『本当の親じゃない』って言ったくせに」と爆弾発言をします。とんでもないサプライズになってしまったのでした。この様子から、コニーの父親は、その後にコニーをたしなめることはしないでしょう。このシーンは、ルーシーよりもコニーに将来的な危うさを感じさせます

 


能力の限界―新しいことに弱い

サムは、新しい人間関係において、自己主張がうまくできません。パーティーでコニーの父親に突き飛ばされたのに、逆に、コニーへの暴行未遂があったとされてしまいます。また、ある時は、誤解から売春未遂で警察に誤認逮捕されています。

ルーシーにせがまれて、サムはルーシーをいつもとは違うファミリーレストランに連れて行った時のことです。それは、同じ生活パターンを繰り返すことで安心感を得ていたサムにとっては、かなりの緊張を伴うものでした。注文したいメニューがないことでパニックになってしまい、テーブルを叩き、「ボブ(レストランチェーンのマスコット)に聞いて!」と言い、ウェイトレスを困らせています。そして、「お客様は神様だ」と連呼して、止まりません(常同症)

サムの職場の店長の寛大な配慮から、サムがコーヒーを運ぶ係から、作る係に昇進した時のことです。彼はマニュアル通りにコーヒーを作ることに問題はなく、順調にこなしていました。ところが、たくさんの注文を同時に受けると、パニックになります。そして、急いで作ろうとして失敗してしまいます。

 このように、サムの能力の限界は、特に、新しい所へ行く時、新しい仕事をする時、そして新しい人間関係を築く時にはっきりと表れます。つまり、サムは、新しいことへの対応や臨機応変な対応に限界があります。相手の心を読みにくい、物事の先を読みにくい、そして、自分自身の心の動きも読みにくいため、客観的にものごとを考えること(メタ認知)がうまくいかないのです。


知能の多様性―頭の回転の速い人も遅い人もいる

サムの知的な限界がルーシーに与える影響を心配され、ついに児童福祉局が動き出します。そして、ルーシーはサムから引き離され、裁判が始まります。その時にサムの弁護士として登場するのがリタです。彼女は、とても優秀で努力家で、社会的にも成功し、経済的に恵まれています。しかし、彼女は、金儲けや名声のことばかりを考え、家庭を顧みず、夫に浮気され、幼い息子から嫌われています。サムとは真反対の境遇です。その彼女が、同僚に見栄を張って、サムに無料奉仕で弁護を引き受けたのです。

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法廷では、検事が登場します。彼は、「子どもを守る」という彼なりの正義感があるようですが、サムを排除することに一生懸命になってしまいます。この検事とリタのやり取りがすさまじく描かれています。両者とも、お互いの言い分や証人の荒探しをして、作戦の読み合いをする知能戦を展開します。その目まぐるしさや冷酷さが、サムの視点で描かれています。


このように、知的に制限のあるサムと知的に高いリタとのギャップが際立ちます。私たちは、足の速い人も遅い人もいるのと同じように、頭の回転の速い人も遅い人もいることが分かります。これは、人の多様性であり、個性とも言えます。

 


知能指数(IQ)とは?

もともと知能の程度を評価する知能テストは、20世紀に軍事目的で発展してきました。軍人の知的な能力をより効率的に把握していれば、戦闘をより有利に進めることができると考えられたからです。そして、この知能テストのスタイルは、現在まで、教育、医療、そして企業の就職の現場などに引き継がれています。

 私たちは、知能指数(IQ)が高いことに憧れてしまいがちです。IQが高い方が、仕事を早くこなせて、人間関係もうまくいき、世の中を有利に渡ることができると思うからでしょう。しかし、よくよく考えると、IQはあくまで知能テストによってはじきだされた1つの目安の数値であり、それがそのまま社会に順応する能力(適応度)の高さを表しているわけではないということです。IQが高いとは、知能テストという「ゲーム」がとても得意であるということに過ぎません。ちょうど、受験英語で偏差値が高いからと言って、実際の英語でのコミュニケーションの能力が高いわけではないのと同じです。もっと言えば、IQを高める手っ取り早い方法は、受験英語と同じように、知能テストを繰り返しやって問題慣れすることです。しかし、これで社会への適応度はいっさい高まりません。

実際に、IQの数値と企業での勤務成績との相関関係は低いようです。ここで言えることは、IQは、あくまで知的な制限のある人への支援のための目安としてのみ活用するべきであるということです。

 


知能とは?

  それではそもそも知能とは、何なのでしょうか? 知能とはものごとを理解し判断するための知的な能力であるとさきほど説明しました。しかし、その具体的な要素や重み付けは、時代、場所、文化、職場によって変わってきます。

 例えば、知能を伸ばすための英才教育として、フラッシュカードという記憶力を高めるトレーニングが注目されてきました。もちろん記憶力は高いに越したことはありませんが、問題は、記憶力を高めることばかりにエネルギーを注ぐことによって、想像力や発想力が疎かになってしまうということです。もはや、コンピュータが普及しているこれからの時代に求められる知的な能力は、記憶力ではなく、想像力や発想力です。記憶力はある程度あれば、あとはスマートフォンで検索すれば済むことです。これは、計算力に関しても同じです。さらには、語学力も、自動翻訳機の技術の進歩によって、あまりもてはやされなくなっていくでしょう。また、これまで求められてきた能力は製造業などでの緻密さですが、これからもっと求められていく能力はサービス業などでのコミュニケーション能力です。

このように、知能に求められる価値観は、その時の、そしてその場所の社会によって、揺れ動いており、絶対的なものではないと言えます。

 


知能の多義性―知能にはいろいろな意味や広がりがある

知的な制限のあるサムならではの個性によって、リタは知的に高いがために忘れていた大事なことに気付かされます。それは、自分のためにではなく、息子のために大切なことは何かという視点です。裁判が進んでいく中、リタは、サムとルーシーのお互いを思いやる関係を自分と息子の関係に重ね合わせるようになったていたのです。リタはサムに「私の方があなたに救われた」と打ち明けます。「負けを知らない女」として日常的に嘘を平気でつく自分本位な雰囲気はもはやありません。このストーリーで最も成長したのは、リタなのでした。

また、法廷に駆け付けた隣人のアニーの言葉が印象的です。「ルーシーはサムが親なのに賢いのではありません」「サムが親だから賢いのです」「引き離されると、彼女の心の中にぽっかりと穴が空いてしまう」「それが心配です」と言い、ルーシーの視点に立ち、ルーシーにとって望ましいのは何かを伝えます。
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 ルーシーを引き取って養母になろうとしているランディの心の変化にも注目しましょう。最初、彼女はサムに対して「この子をどうやってでも守る」と敵意をむき出しにしていました。その後に、サムがランディに「僕には助けが必要だ」「ルーシーにはママが必要だ」と素直に言います。サムの純粋さに触れて、ランディは、共同親権という形で「ルーシーにいつでも会っていいわよ」とサムに申し出るのでした。これが、ルーシーにとって最も望ましい落としどころとなり、ハッピーエンドを迎えます。

知能は、広い意味では人間的な賢さです。つまり、賢さという視点で見るなら、知能は、単に相手と敵対して有利になるための情報処理能力ではありません。逆に、敵対的にならないように、感情をコントロールする情動処理能力でもあります。これは、心の知能指数(EQ, emotional quotient)と呼ばれてきました。また、相手を配慮(共感)し、相手の視点に立つ能力(メタ認知)でもあります。そして、お互いの妥協点を探り、自分も相手も共存するために折り合いを付ける能力(社会性)でもあります。このように、知能にはいろいろな意味や広がりがあるのです。そして、この広い意味での知能は、社会的知能(SQ, social quotient)と呼ばれるようになってきています。

 

3 社会的知能(SQ)を高めるポイント

 

相手を知る

ギスギスしている相手ほど耳を傾ける

自分を伝える

ギスギスしている相手ほど働きかける

場数を踏む

ギスギスしている状況に前向きになる

 


社会的知能(SQ)を高めるには?―「社会力」

 これからの時代に求められる知能は、コニー親子やかつてのリタのように、相手と敵対して争うために有利な能力、つまり単なる知能指数(IQ)ではありません。それは、ランディのように、相手と協力してお互いを生かすための能力、社会的知能(SQ)です。それでは、このSQを高めるためには、どうしたらよいでしょうか? 3つのポイントがあります。

1つ目は、相手のことをよく知ることです。知ろうと興味を持つ中で、相手とかかわり、相手の視点に立つことができるようになります。さらには、いろいろな人の価値観に触れて、バランス感覚を持つことでもあります。そして、相手の長所と短所を見抜く目を持つことで、より良い折り合いを見つけることにつながっていきます。例えば、ギスギスした時に、その相手を避けたり攻撃したりするのではなく、逆にそんな相手の言い分ほど耳を傾けることです。

 2つ目は、自分のことをうまく伝えることです。1つ目のいろいろな人を知ることを通して、その比較としての自分自身を俯瞰(ふかん)して見ることができるようになります。それは、自分の長所と短所を見極めることにもなります。その見極めを踏まえて、自分と相手が協力してできることをうまく伝えることです。例えば、ギスギスしている相手ほど、まめに働きかけて、前向きで建設的な話をしていく姿勢を示すことです。

 3つ目は、かかわり合いの場数を踏むことです。私たちは、いっしょに生きている限り、必ず主張の衝突は起こります。その時が自分のSQを高めるための実践トレーニングであると前向きにとらえることです。この姿勢自体ですでにSQは高まっていると言えます。SQは、IQと同じようにテストの数値によって推し量ろうとする研究もされていますが、むしろ、実践によって体得していくものとらえた方が良いでしょう。そして、SQが高いとは、自分と相手の主張の衝突を乗り越えて仲良くできているという実感そのものであると言えます。SQは、そもそもどちらが高いかと競い合うものではありません。自分と相手(社会)が築き上げていくものです。

 

4 知能指数(IQ)と社会的知能(SQ)の違い

 

知能指数(IQ)

社会的知能(SQ)

評価方法

知能テスト

実践の積み重ね

要素

記憶力、情報処理能力

→学力

IQの要素に加えて、相手との折り合いをつけるための共感性、想像力、発想力

→「社会力」

モデル

コニーの父親

かつてのリタ

ランディ

その後のリタ

 


学力だけではなく「社会力」を

 映画では、サムの存在によって、ルーシーの社会的知能(SQ)はとても高まっていることが分かります。しかし、現在の日本の教育事情はどうでしょうか? ルーシーのクラスメートのコニーのように、学力という名の記憶力や情報処理能力ばかりに重きが置かれてしまっています。欧米先進国と違い、日本ではアルバイトが禁止とされている学校がほとんどです。勉強さえしていればよいという価値観が強まり、社会参加を通して人とかかわっていく経験がなくなっています。また、出生率の低下から、兄弟がほとんどいない一人っ子の家庭が多くなっています。その結果、兄弟間の葛藤がなく、人とのかかわりにおいて、押し引きのバランス感覚が伸びず、自分本位の発想をしてしまいがちになっています。それが、現在の引きこもりの社会現象を起こしている原因の1つとなっているように思われます。

このように、SQが高まらない学校環境や家庭環境が危ぶまれます。SQを高めるためには、例えば学校教育の中でも、アルバイトやボランティアを推奨する仕組みが望まれます。また、家庭においては、地域のコミュニティでの集まりやイベントを通して、世代をまたいだより多くのかかわりが望まれます。

IQを学力に近いものとすると、SQは「いっしょ(社会)に生きていく力」、つまり「社会力」とも言えます。これからのコミュニケーション重視の時代は、学力だけでなく、この「社会力」もとても必要になってきます。特に、人を相手とする医療関係者の私たちは、もちろん学力も必要ですが、バランスよくこの「社会力」を日々高めていく必要があるということです。

 


なぜ知能は進化したのか?―社会脳

 原始の時代から現在まで、人が知能を進化させることができたのはなぜでしょうか? それは、過酷な環境を乗り越えるために、人が集団(社会)をつくり、助け合ったからでした。そして、その助け合いのためには、表情、身振り、言葉によって、相手の心を読む能力が進化していったからです(社会脳)。この能力から、自分の置かれた状況の先を読む能力、そして自分自身の心の動きを読む能力も進化していきました。これらは、ものごとに距離を置いて客観的にとらえる心の働き(メタ認知)でもあります。

 現在、この進化した知能が、知能指数(IQ)として相手と敵対して争うために有利な能力として使われすぎています。私たちは、この知能の進化の原点に立ち戻り、社会的知能(SQ)や「社会力」という新しい視点を通して、自分の社会へのかかわり方や社会のあり方そのものを見つめ直すことができるのではないでしょうか。

 


参考文献

 

1)ダニエル・ゴールマン:SQ 生き方の知能指数、日本経済新聞出版社、2007

2)村上宣寛:IQってホントは何なんだ?、日経BP社、2007

3)村井俊哉:社会化した脳、エクスナレッジ、2007