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告白いじめ(同調)

「あの人、ほんと困るよね?」

皆さんは、ある仕事仲間について、別の仕事仲間から「あの人、ほんと困るよね?」と同意を求められたことはありませんか?特に何とも思っていない人についてでも、ついつい調子を合わせてしまったことはありませんか?

 私たちは、なるべく気持良く仕事をしたいので、人間関係には気を使っています。特に、私たちが担う対人援助職は、向き合うのが人であるだけに、やり方が個々人で少しずつ違ってしまいます。にもかかわらず、同時にチームワークも求められるため、援助の相手だけでなく、援助をいっしょにする相手にも、人一倍、気を回す必要があります。

 気を使う、気を回すとは、つまり、周りに合わせる心理でもあります(同調)。今回は、この同調をテーマに、映画「告白」を取り上げます。この映画は、次々と変わる登場人物の視点によって、それぞれの抱える心の「闇」が見透かされ、事件の全体像が少しずつ浮き彫りになっていきます。そして、事件後、その「闇」が重なり合い、希望の「光」は見えなくなっていくのです。

その中で、今回は、この映画の前半で色濃く描かれている学校社会の危うさ、特にいじめの心理についてみなさんといっしょに考えていきたいと思います。そこから、私たちの職場に生かせる人間関係のヒントを探っていきたいと思います。


学級崩壊―アノミー

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舞台は教室。春休み前の終業式の日、中学
1年生の担任の女教師、森口先生が話しています。しかし、30数人の生徒のほとんどはおしゃべりや思い思いのことをして、雑踏のようにざわついています。勝手に教室を出ていく生徒もいます。担任教師の統率する力がかなり弱まっており、学級崩壊の状態です。教室はもはや無法地帯で混沌としており、生徒たちの独りよがりな「秩序」が生まれる温床になっています(アノミー)。実際に、屋上では、ある生徒をターゲットにしてボールをぶつけるいじめが起きています。

そんな中、森口先生は言い放ちます。「愛美(自分の娘)はもういません」「愛美はこのクラスの生徒に殺されたんです」と。衝撃の告白です。生徒たちは全員、静まり返ります。森口先生は話を続けます。その犯人は2人で、少年Aと少年Bとして名前が伏せられますが、真相が明らかになるにつれ、その2人が誰なのかがクラス全員に分かってしまうのでした。森口先生は「警察が事故と判断したのなら、それを蒸し返すつもりはありません」と言い添え、その2人に、ある「復讐」をしたことをクラスに伝え、学校を去ってしまいます。

事件の真相の告白によってクラスに「殺人者」がいるかもしれないという不安や疑いの気持ちで、生徒たちの感情は高ぶり、大きなエネルギーが生まれようとしています。

 


ノリの高まり―同調性

 春休みが明けて新学年になりました。クラスは持ち上がったため、顔ぶれは変わっていません。そして、教室の生徒たちの様子も全く変わらず、何ごともなかったかのように、みんなわいわい仲良くしています。少年Bは不登校となりましたが、もともと孤高の少年Aは、何食わぬ顔で教室にいます。

 なぜ、事件の真相のことがクラスから全く漏れていないのでしょうか?そのわけは、森口先生の話が終わった直後、差出人不明のあるメールがクラス全員に届いていたからなのでした。「森口先生の告白を外に漏らしたヤツは、少年Cとみなす」と。とても巧妙です。強制的に秘密を共有させられるというクラスの独特のルールができあがったことで(集団規範)、クラスという世界が内に閉じ込められ(閉鎖性)、クラスのベタベタとした結びつき(集団凝集性)が強まります。そして、ますますみんな同じように考え、同じように動くようになるのです(同調性)

 クラスのルールの基準は、この同調性に楽しさをプラスしたもの、つまりノリです。生徒たちの不安という感情の高ぶりが、クラスのノリという笑いの感情の高ぶりに置き換えられていったのです。生徒たちがみんなでいっしょにダンスするシーンや、名前コールや手拍子を合わせるシーンは、あたかも楽しそうです。そこには、みんなとの一体感があり、心地良さがあるのです。


横並び意識―均一化

 ある女子が、クラスのある男子にうっとりしていると、別の女子から「何、見てんの?」「今、見つめてたでしょ」と言われ、その女子は「見つめてないよっ」と言い返し、冗談交じりの言い合いになっているシーンがあります。他愛のないやり取りのようですが、不気味にも見えてきます。その理由は、ノリという一体感を維持するために、お互いがお互いの動きに敏感になり(対人感受性)お互いのことを知りすぎてしまい、心の間合い(心理的距離)が近すぎることです。この濃厚な人間関係により、「みんな仲良し」という横並び意識(均一化)が強まっています。

 


熱血教師―反知性化

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 新学年になり、新しい担任教師ウェルテルが登場します。彼は、
生徒と一定の距離をとる森口先生とは真逆のタイプで、初対面から熱く馴れ馴れしく語ります。「僕はまっさらな気持ちで君たちに向き合いたい」「みんなどんどん僕にぶつかってきてくれ」「僕ががっちり受け止めてやる」「みんなの兄貴に僕はなりたいんだ」「僕はちゃんとみんなを見てるから」と。そして、やたらと「みんなで」と言い、一体感を強調します。

これは、典型的な体当たり主義(反知性主義)の熱血教師です。そこには、熱血というノリによって自分の生き様を体当たりさせれば、クラスが一体となって何とかものごとは解決するものだという楽観的で短絡的な発想が見え隠れします。

彼なりに、良かれと思い一生懸命にやっているようですが、空回りして痛々しく滑稽に描かれています。彼は、実は生徒の話に耳を傾けることもなく、自分の考えを一方的に説き伏せ、調子のいいことばかり言い、生徒とのかかわりには中身がないのです。

不登校になった少年Bに対しても、「心の病」としてそれ以上の原因を突き止めようとはしません。今後の具体的な方針や対応策について関係者と相談しようとはしません。ただ大声で励ますだけなのでした。こうして、「まっさらな気持ち」で生徒に体当たりするかかわりは、心の間合い(心理的距離)が取れないことで、逆に少年Bを追い詰める結果にもなっていました。そもそも彼は、前任の森口先生からの生徒たちの申し送りを一切読んでおらず、そもそも前任が森口先生だということも知らなかったのでした。後に明かされる森口先生の指示による操作の影響があるにしても、やはり彼は、おめでたい熱血教師なのでした。

彼は、徹底的な下調べや教育の方法論によって生徒と向き合おうとはしていません。彼によって、生徒たちがものごとを理性的に考えにくくする雰囲気が作り出されています(反知性化)。そして、この雰囲気こそが、一体感に隠されたクラスの横並び意識の下地になっているのでした。

 


学校文化―平等主義、協調性、管理教育

 森口先生が、11人の生徒のがんばりを評価していたのに対して、ウェルテルは平等な目を持つと言い、生徒を個別に評価しません。生徒の横並び意識を生み出すこの平等主義は、現在の学校文化そのものです。実際に、昔と違って今は、学業成績優秀者は公表されません。運動会では競争で順位をつけないのです。

 学校は、平等主義をもとに、「みんな仲良し」という協調性を強調します。協調性は、もちろん、共感性や信頼感を育む教育の意義はあります。かつて高度成長期に求められた均質な労働力を育む役割を果たしました。

しかし、協調性は、同時に、制服や髪型の校則により「○○らしさ」という画一性や、「学校に歯向(はむ)かわない良い子」を生み出す管理教育が徹底される結果にもなりました。この点で、最近、運動会で流行っている、競技者全員が同じ動きを披露する「集団行動」という種目は、美しくもあり、気持ち悪くもあります。それは、某独裁国家の軍人たちの足並みの揃った行進を連想してしまうからです。

 


日本文化―同調文化

 それでは、そもそも、このような学校文化を根底から支えるものは何でしょうか?実は、それは、日本文化そのものです。日本文化の特徴と言えば、ほぼ単一民族で顔かたちや体つきが似ていることに加えて、島国であり、さらに、300年の江戸時代の鎖国によって高度に「洗練」されてしまった集団主義の文化です。集団主義とは、常に「世間」というと閉ざされた周りから自分がどう思われているかに敏感になり、なるべく周りに迷惑を掛けないように気を使い、集団の秩序(集団規範)を重んじる内向きの文化です。それに背いたら、いじめ、つまり「村八分」という制裁が待っています。

情報化された現代において、日本人ほど流行に敏感な国民性はなさそうです。日本が海外からどのように取り上げられているかをテレビでよく報道されています。これほど自国が他国からどう見られているかに敏感になる国民性は他にはないのではないでしょうか?いつも、周りを気にして、そして流されやすいのです。

最近、テレビのバラエティで、多数派当てゲームが高視聴率であるのも日本独特ではないでしょうか?また、出演者が「とりあえず謝れよ」と言われて、訳の分からないまま、実際に謝って笑いをとるという展開は、「お約束」のネタですが、「同調圧力に屈した」というブラックな笑いでもあります。これが果たして欧米人に通じるかということです。けっきょく、その場で支配しているのは、理屈でも市民社会の正義でもなく、「空気を読む」というノリ(同調)なのです。そして、どうやら、この笑いは、同調性が高い集団主義的な日本文化だからこそ成り立っているように思われます。

 


身分意識―序列化

 生徒たちの横並び意識は、実は、危うさがあります。なぜなら、人は一方で、序列を好むからです(序列化)

私たちは、オリンピックやギネスブックを始め、何ごともランキングは気になるものです。こうしたランキングの高いもの、つまり、より良いものを求めるからこそ人間は進歩してきたわけで、進化心理学的にも理解できることです。また、生物学的にも、猿山のボスのように、順位性がはっきりしているからこそ、群れの秩序が生まれます。さらには、歴史学的にも、人はそもそも階級社会により、居場所や役割を見いだし、そこに安住してきました。つまり、序列を好む身分意識は、社会的な動物の本能とも言えます。

 


クラス内の序列―スクールカースト

 今の学校社会の序列はどうでしょうか?昔から学校社会に序列はありました。しかし、昔と今で大きく違っている点は、その序列を決める物差しです。昔は、勉強ができるか、スポーツができるか、ケンカが強いか、顔がいいか、話がうまいかなどいくつもの物差しがあり、しかも、成績やスポーツの優秀者は公表されるなど、みんなに分かりやすくなっていました。

ところが、今の学校社会は、平等主義によって、これらの物差しが隠されています。ちょうど、自我同一性の確立が起こる思春期は、どうしても相手との違いや力関係を意識してしまうものです。そんな中、学校で協調性だけがあまりにも強調されてしまった結果、その相手との力関係の物差し、つまり今の学校社会の序列(スクールカースト)の物差しは、どれだけノリの空気を読めるかというコミュニケーション能力、つまり、どれだけ周りに調子を合わせることができるか(同調性)になってしまいました。

この心理は、みんなより秀でることも含めて、とにかく目立つことで「調子に乗るな」という働きかけの心理(同調圧力)にすり替わってしまうリスクがあります。そして、この同調圧力の高い空間で、空気の読み合いをして1日の大半を過ごして、ヘトヘトになっているわけです。なぜなら、読み違えたら、ノリが悪い下位の身分にされてしまうからなのです。こうして、集団のノリに同調するというサバイバルゲームに強制的に付き合わされているわけです。

 そして、この同調性は、時間をかけて、馴れ合いや甘えをはびこらし、彼らを、与えられたものだけで満たされるという競争意欲が削がれた、つまり「去勢」された大人にしてしまいます。これは、現代の社会問題になっている「引きこもり」にもつながっていきます。

 


いじめ加害者の心理―精神的伝染(感応)

教室でみんなが掃除をしている中、ある男子が少年Aに牛乳パックを投げつけ、「お前、全然反省してねえだろ」と言います。少年Aは何も言わずに立ち去ります。すると、ある女子がニヤリとします。次のいじめのターゲットが決定した瞬間です。そして、クラス全員が動き出すのです。

少年Aは、成績トップで優秀でしたが、冷めていてクラスのノリに一切付き合わない浮いた存在でした。つまり、スクールカーストで下位の身分とされてしまっていました。そこに、いじめを正当化するのに、「人殺し」というとても都合の良い理由ができたのです。このように、下位の身分は、理由付けによって、仲間外れから仲間外し、つまり、いじめのターゲットにされるリスクが高まります。

 同調性は、二面性があります(1)。教室のノリのように、集団が共通の目標に向かって同じ方向に向かうエネルギーを生みだす一方、同時に、同じ方向を向かない者を、ノリをブチ壊す共通の「敵」と見なしてしまう危うさもあります。クラスが少年Aに望んでいたことは、その場に存在しないか、または下位の身分として卑屈にしていることだったのです。

さらには、何()かを共通の「敵」に仕立て上げるための「正当」な理由を誰かがでっち上げ、それを集団のメンバーが次々と信じ込むという精神的伝染が起こります(感応)。この思い込みは、戦時中の日本軍の特攻隊が「喜んで」殉死していく心理や、現代のカルト宗教集団が「アルマゲドン」を唱えることで不安を煽る「洗脳」「マインドコントロール」の心理に重なります。また、逆に、同調や感応のエネルギーによって、リーダー的な存在は、「カリスマ」「教祖」として、持ち上げられ、崇拝されることもあります。

そして、最終的に、この「敵」となったターゲットは、生け贄として「処刑」されてしまうようになります(スケープゴート現象)。この現象は、中世ヨーロッパの魔女狩りに重なっていきます。


 

1 同調の二面性

困った面

良い面

同調性

横並び意識、馴れ合い、談合

イエスマン、甘え

ベタベタ感、しがらみ

仲間外し(スケープゴート現象)

協調性、共感性

助け合い

一致団結、和の精神

一体感、連帯感、結束力

仲良し

 


いじめ―ノリの「臨界点」

 その後、すぐに「制裁ポイント集計表」「みんなどんどん制裁してね」「人殺しに天罰を!制裁ポイントを集めろ!!」という差出人不明のメールが出回ります。するとほぼ全員が競って、少年Aに対していじめを始めます。さり気なくぶつかることから、すれ違いざまに「死ね」と吐き捨て、ノートなどの持ち物に落書きをしたり、それらをゴミ箱にあからさまに捨てたり、教室の窓から投げ落したりもします。その度に、メーリングリスト上でポイントが更新されていきます。まさに、少年A対クラス全員という構図です。いじめは、参加者や同調する観客が多ければ多いほど正当化され、エスカレートしていきます。クラス全員のいじめという「処刑」を通して、クラスみんながいっしょに笑い転げて、クラスの一体感(集団凝集性)がさらに高まっていく様子が生々しいです。それは、まるでお祭り騒ぎです。

 いじめとは、クラスメートたちの際限のないノリへの欲求が満たされなくなった瞬間、つまり、煮詰まって物足りなくなるという欲求不満に陥った瞬間に起こります。これは、集団のベタベタ感(集団凝集性)が強まりすぎて「臨界点」を超えることです。そして、このベタベタ感により、自分たちが思い付いた独自のルール(集団規範)が簡単にまかり通るようになります。


いじめ被害者の心理

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 かつて屋上でいじめられていた、ある生徒は、今度は、かつて自分にボールをぶつけた生徒といっしょになって、楽しそうに少年
Aをいじめています。いじめ被害者の心理とは一体どういうものなのでしょうか?

いじめ被害者がいじめを受け入れてしまう理由を、意識的な要素と無意識的な要素で分けて考えてみましょう。

 

(1)意識的な要素―順番制との割り切り

まず、意識的には、いじめは「順番制」であるということを経験的に知っているので、自分が受けるいじめもそのうちに終わりがあると割り切っているからです。自分の順番が終わるのをひたすら待っているということです。

 

(2)無意識的な要素―思い込み(自己暗示)

次に、無意識的な要素、つまり思い込みです(自己暗示)。こちらが、より深刻です。大きく3つの要素に分けて見ていきましょう。

 

①自分に問題があるとの思い込み

1つ目として、それは、いじめられるのは、自分に問題があると思い込んでしまうことです。なぜなら、「みんな仲良し」と学校で教え込まれてきたため、いじめ被害者イコール「みんなと仲良くできなかった自分」は、「劣ったダメな子」になってしまうからです。そして、この心理は、「みんなに嫌な思いをさせてごめんなさい」という罪悪感にすり替わってしまいます。よって、熱血教師が友情の大切さを語れば語るほど、いじめ被害者は、大切にされていない自分の「友情」を情けなく思うのです。

さらに、本人は、クラスのルール(集団規範)に背かないようにして、いじめの事実を外に漏らしません。むしろ必死に隠そうとします。だから、学校を休もうとはしない場合も多いです。いじめの事実が明るみになることは、密告した裏切り者として、永久にみんなとは仲良くしてもらえなくなると思い込むからです。また、いじめはスクールカーストの下位の身分が受けるものであるため、いじめられていることを親や教師に伝えることは、自分が下位の身分であると認めることになり、恥ずかしいとも思っているからです。

 

②居場所がなくなるとの思い込み

 2つ目として、自分は悪くないと分かっていても、みんな(群れ)から離れて孤独に耐えるよりも、いじめられるという役割を受け入れて、みんな(群れ)のいるところに残っている方がいいとの心理が働きます。そのわけは、被害者にとって最も辛いことは、いじめそのものではなく、誰にも相手にされないこと、つまり、クラスに居場所がなくなることなのです。

彼らの年代(前青年期)は、ちょうど、体の成長の加速とともに、心も成長していき、同性で同じ年頃との仲間意識を急激に高めていきます。逆に言えば、孤独感を感じやすい時期でもあります。仲間外れに敏感になります。そして、自分だけは仲間外れになりたくないとも思うのです。だから、たとえ、その相手を好ましく思っていなくても、またその相手がいじめ加害者であっても、被害者は「いじられキャラ」という役回りとしてクラスのノリにしがみ付こうとします。そして、その小さな世界の「価値観」に縛られて身動きがとれなくなっています。

この名残が、現代の私たちの社会で、昼食の時だけいっしょに過ごす人がいたり(ランチメイト症候群)、便所で隠れて昼食を摂ったりする(便所飯)などの最近の社会現象を引き起こしているように思われます。その根っこの心理は、「友達がいないのは苦じゃない」「友達がいないと思われるのが苦である」ということです。

 

③いじめを受ける身分との思い込み

3つ目として、クラスという集団の雰囲気に飲み込まれ、「仲間に入れてもらうためならどんなことでもする」という心理になっていきます。これは、自分は「いじめを受ける」という身分を受け入れて生きていくようになり、この発想から抜けられなくなることです。こうして、ますますいじめがエスカレートしていきます。

 このいじめ被害者の心理と重なるのは、かつて実際に行われた模擬刑務所で、看守役と囚人役の被験者たちが役になり切ってしまったという心理実験です(スタンフォード監獄実験)。また、かつてストックホルムで起こった人質銀行強盗事件で、長時間、犯人といっしょにいた人質たちが次々と犯人に好意的になっていき、人質のある女性は、犯人が逮捕された後でも、犯人に結婚を申しこんだ出来事です(ストックホルム症候群)。これは、DV(家庭内暴力)被害者の女性にも似た心理です。人は、極限状態において、その環境に適応しようとする心理メカニズムが働いてしまうのです。

そして、そのいじめの暗示は、ターゲットが自分ではなくなった時に、ようやく解けるのです。


制裁ポイント―踏み絵

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 少年Aは、どんなにいじめられても、無言で淡々として、全く動じません。いじめの目的として重要なのは、ターゲットをどれだけいたぶることができたかです。よって、クラスメートは何とかして少年Aを「ひいひい」と言わせて、彼がひれ伏すまで、そして、彼が学校に来なくなるまで、内容もエスカレートしていきます。

そんな中、「このクラスにはいじめがあります」と宿題のノートにメモを入れた生徒がいるとウェルテルがみんなに打ち明けます。クラスメートの1人である美月は、身に覚えがありませんでしたが、リーダー格の女子に「あんただよね、チクったの?」と問い詰められます。実は、彼女だけ、クラスのノリに疑問を感じ続け、制裁ポイントがクラスで唯一0点だったのです。その理由だけで、密告者に仕立て上げられます。制裁ポイントは、踏み絵の役割も果たしていたのです。

美月は、「人殺しの味方して」「あんたには感情ないの?」と一方的に迫られ、みんなに手足の自由を奪われ、少年Aと無理矢理キスをさせられるのでした。まさに、「魔女裁判」「魔女への火炙(あぶ)り刑」です。彼女は、冷静に告白します。「このクラスは異常です」と。

もはや、裏切り者は虫けら以下の扱いで、みんなのノリを楽しませる「玩具」としての身分しか与えられません。いじめという名を借りた校内犯罪が集団的に行われる状況にまでに達しています。昨今の全国的ないじめ自殺の報道を重ね合わせると、学校という場所は、精神的に何が起きてもおかしくない壮大な「心理実験室」と化しているようにも思えてなりません。

一方、少年Aは、自分のために美月が巻き込まれたことで、ついに動き出すのです。

 


いじめの危険因子―ベタベタ感(集団凝集性)―表2

いじめは、集団のベタベタ感(集団凝集性)が「臨界点」を超える時に、エスカレートすることが分かってきました。ということは、このベタベタ感を成り立たせる要素を探れば、ベタベタ感をコントロールして、いじめのエスカレートを防ぐことができるのではないでしょうか?つまり、ベタベタ感は、いじめの危険因子でもあるのではないかということです。そこで、このベタベタ感の要素を、3つの「近さ」という視点でもっと詳しく見ていきましょう。

まず、それは、集団のメンバー同士がどれだけ似ているか(均一性)、つまり、自分と相手との個体的な「近さ」です。例えば、顔や体格が似ている、年齢が近い、同性、生まれ育ったところが同じ、そして、趣味や考え方が同じ状況です。さらには、制服や髪型などの姿も同じで、同じ目標を持っている状況です。つまり、私たちは、相手との共通点がたくさんあればあるほど自然と親近感や安心感が湧いてきます。そして、さらに共通点を増やそうとして同調していく傾向にあります。これは、同時に、相手との違いがなくなっていくことでもあります。

 2つ目は、集団のメンバー同士がどれだけの時間いっしょにいるか(固定性)、つまり、自分と相手との時間的な「近さ」です。例えば、1日のうち平日だと日中のほとんど、それがクラス替えまで最低1年間、持ち上がれば2年間であるという学級制度です。これは、長期間、相手が変わらない、つまり、人間関係が固定化されてしまうことです。

3つ目は、集団のメンバーがどれだけ閉ざされた空間にいるか(閉鎖性)、つまり、自分と相手との空間的な「近さ」、密閉性です。例えば、望んでいない相手でも顔を合わせなければならないという学校の教室の物理的な閉鎖性です。また、「チクり(密告)は許されない」というクラスの暗黙のルール(集団規範)により、助けを求められないなど、問題が起きても外に漏れないという心理的な閉塞感です。これは、相手から逃げられない、逃げ場がないということです。


 

2 クラスのベタベタ感(集団凝集性)の要素とコントロール

要素

個体的な「近さ」

(均一性)

時間的な「近さ」

(固定性)

空間的な「近さ」

(閉鎖性)

特徴

相手との違いが少ない

相手がいつまでも変わらない

相手からの逃げ場がない

似た顔や体格

同性

同年齢

同じ出身地

同じ趣味や考え方

同じ姿(制服や髪型)

1日のうち日中のほとんど(平日)

期間は最低1年間、持ち上がれば2年間

教室という物理的な閉鎖性

問題が起きても外に漏れないという心理的な閉塞感

コントロール

対策

個体的な「間合い」

(多様化)

時間的な「間合い」

(流動化)

空間的な「間合い」

(開放化)

特徴

人はそれぞれ違う

人間関係は変わっていく

人間関係は教室の中だけではない

服装の自由化

能力や頑張りを公表

ディベートの授業

組替え学期制(半年)

班替え・席替え(半月)

下級生や小学校への定期交流

サマーキャンプ

イベント学習

交換留学

 


いじめ対策―私たちが生かす取り組み

いじめの危険因子を探っていくと、どうやら、学校の仕組みやあり方そのものに、いじめをはびこらせる要因があることが分かってきました。それは、「みんな仲良し」というベタベタ感(集団凝集性)と、クラスのノリ(同調)による不安定なルール(集団規範)でした。

 私たちは、クラスという集団と同じく、組織という集団にいます。ですから、私たちが、子どものいじめや学校社会の危うさをよく知ることで、大人のいじめや職場の組織のあり方を見つめ直すことができそうです。

ここからは、いじめへの具体的な対策を考えることを通して、私たちの組織集団が、いじめや対人トラブルなどで煮詰まらずに、なるべく健康的であり続けるためのヒントを見つけていきましょう。

大きく2つの対策が上げられます。それは、ベタベタ感(集団凝集性)をコントロールすること、そして、ルール(集団規範)がブレないことです。

 

(1)ベタベタ感(集団凝集性)をコントロール―表2

いじめの危険因子を探っていくと、どうやら、学校の仕組みやあり方そのものに、いじめをはびこらせる要因があることが分かってきました。それは、「みんな仲良し」というベタベタ感(集団凝集性)でした。本来、このベタベタ感は、友達作りのチャンスとして、ある程度は必要です。ただ、どの程度まで必要なのかという視点を持つことが大事だということです。なぜなら、このベタベタ感が行きすぎると、「仲良しの強制」になってしまい、関係が煮詰まり、逆説的に、いじめが起こり、大きくなり、長引くからです。

そのベタベタ感の要素は、個体的な「近さ」(均一性)、時間的な「近さ」(固定性)、空間的な「近さ」(閉鎖性)でした。それでは、学校は、これらを具体的にどうコントロールしていけばいいのでしょうか?

 

①人はそれぞれ違うことに気付かせる―多様化

 1つ目に問題なのが、個体的な「近さ」、つまり、集団のメンバー同士がどれだけ見た目や考え方が似ているか(均一性)でした。この「みんな同じ」という横並び意識は、集団主義の日本文化を土台に、平等、協調性、管理を重んじる学校文化によって、蔓延してしまいました。

 この均一性のコントロールのためには、学校社会における生徒たちの見た目と考え方に介入していく方法があります。

 

a. 見た目の多様化

 まずは見た目です。制服は自由として、髪染めやピアスを含めたヘアースタイルの校則を緩和することです。この校則は、非行が蔓延した80年代には一定の効果はあったようですが、もはや時代錯誤の時期に来ています。

 

b. 考え方の多様化

 次に、考え方です。もちろん、集団のノリに合わせることは大切な時はありますが、その物差しが全てではないことを学校教育として示さなければなりません。いじめが起こりやすくなる小学校高学年(前青年期)からは、学業、スポーツなどでの能力や頑張りをみんなに見える形で公表して、評価することです。子どもをなるべく競争に曝(さら)さないようにするという今までの教育のあり方は、「みんなと違うこと」に怯えてしまう「去勢」されたひ弱な大人になり、ストレス耐性を弱めてしまい(脆弱性)、引きこもりなどのメンタルヘルスの問題を引き起こしています。ディベートの授業を取り入れて、あえて相手と反対の主張をさせる取り組みも1つです。ある程度の競争や自己主張は必要だということです。なぜなら、そもそも大人の社会が競争と人それぞれの主張で成り立っているからです。

学校教育としては、協調性というコミュニケーション能力だけの「競争」ではなく、競争はいくつもあるということを示すことです。そこから、世の中には、自分を計るいろんな物差しがある、いろんな価値観がある、つまり「みんなそれぞれ違う」ことに気付かせることです(多様化)。個体的な「間合い」です。

自分が「みんなと違うこと」は、人と比べた自分の得意不得意を見極める良いチャンスでもあります。そうすることで、コミュニケーション能力だけでなく、自分の得意なことを伸ばすこと、自分流を見つけることに目が向きます。さらには、相手の違った価値観を受け入れていくことにもつながっていきます。相手との主張のぶつかり合いにこそ、相手への本音の理解や敬意を学んでいくチャンスがあるからです。

 

c. 私たちが生かす取り組み

「同じこと」が前提の価値観から、「違うこと」が前提の価値観へ発想を転換していく必要があることが分かりました。この多様化の視点で、私たちが組織集団に生かす取り組みとして、白衣やナース服の規定に幅を待たせることから、いろいろな経歴や出身の人材を幅広く受け入れることだということです。

さらには、組織の考え方が同調圧力によって偏らないように(集団的浅慮)、自分たちから選ばれた人が、わざと反対意見を述べる役割を作る取り組みもあります(悪魔の擁護者)。ちょうど、「さくら」が根回によって同調するのとは真逆の役割です。そうすることで、他の人たちも違った意見を言いやすくなり、多角的で実りある話し合いが生まれていきます。

 

人間関係は変わっていくことに気付かせる―流動化

2つ目は、時間的な「近さ」、つまり、集団のメンバー同士がどれだけの時間いっしょにいるかでした(固定性)。この問題点は、1年から2年という長期間で相手がほとんど変わらない、つまり、担任教師やクラスメートたちとの人間関係が固定化されてしまうことで、「みんな仲良し」が深まりすぎて、お互いのことを知り尽くしてしまうことです。そして、心の間合い(心理的距離)が近すぎることで、逆に必死に仲良くしようと気を使い、ヘトヘトになり、煮詰まることです。

 

a. 組替え学期制

この固定性のコントロールのためには、学校制度そのものに介入していく方法があります。まず、いじめが起こりやすくなる小学校高学年(前青年期)からは、組替えは1学期(半年)1回はすることです。そして、クラス内の班替えや席替えも半月から1か月に1回することです。

 つまり、学校教育として、人間関係は、期間限定であること、人間関係は常に移り変わっていくことに気付かせることです(流動化)。時間の「間合い」です。その期間で、同じ友達と仲良くやっていく大切さだけでなく、時が来たら、新しく友達を作る大切さも学ぶことができます。もはや、いじめ自殺が現実に繰り返し起こっている以上、人間関係の煮詰まりを子どもに我慢させ続けることは、教育の本来の目的ではないはずです。

 

b. 私たちが生かす取り組み

流動化の視点で、私たちが組織集団に生かす取り組みとして、やはり組織は人材を循環すべきだということが分かります。組織の性質によって、期間はそれぞれですが、目安としては3年くらいではないでしょうか?

長く同じ場所にいることは、勝手が分かってしまうだけに、「なあなあ」な関係になり、お互いへのチェックが甘くなり、隠蔽体質も芽生えてしまいます。古株が既得権を振りかざし、組織として停滞して腐敗するリスクが高まります。つまり、「流れない水は、やがて濁って腐る」というわけです。集団に人の出入りにより、流れがあることが必要不可欠です。

人間関係は教室の中だけではないことに気付かせる―開放化

3つ目は、空間的な「近さ」、つまり、集団のメンバーがどれだけ閉ざされた空間にいるかという密閉性でした(閉鎖性)。この問題点は、望んでいない相手でも顔を合わせなければならないこと、そこから心の間合い(心理的距離)の調節ができないということです。

少年Aは、いじめのターゲットになってから、誰からも話しかけられませんでした。このように、クラス全員で無視する、全員で悪口を言うなどのコミュニケーションタイプの陰湿ないじめが可能になります。

この閉鎖性のコントロールのためには、学校教育の新たな試みが必要にあります。

 

a. 集団を「またぐ」取り組み

まずは、集団の境界をもっと「またぐ」ことです。すでに行われている「またぐ」ことは、合同クラス、選択教科別クラス、能力別クラスなど、いつもいるクラスとは別に設けられているクラスを受けたり、クラブ活動に参加することです。ただ、これだけでは、まだまだいつもいるクラスの影響力が大きすぎます。「またぐ」のは、クラス、学年だけではく、学校、地域、そして理想的には国までも広げていくことができないかということです。

学年をまたいだ取り組みとしては、小学校高学年が低学年のお世話をすることです。すでに年12回程度の交流はあるようでが、重要なのは、このかかわりが、月1回程度に定期的にそして継続的になされることです。学校をまたいだ取り組みとして、一部の地域の試みで、中学校の生徒たちが小学生たちの世話をしているようです。このように、クラスメートとのヨコの関係と教師とのタテの関係だけでなく、先輩後輩というナナメの関係をもっと多く築くことで、人間関係の幅が広がります。

また、サマーキャンプやイベント学習などへの参加は、地域をまたいだ取り組みです。さらには、交換留学を推し進め、留学生をクラスに受け入れ、そして外国に留学する中学生が増えれば、違う文化を受け入れることで、自分たちの中にある違う考え方や価値観にもっと理解を示すことができ、日本人はより国際的になっていくことができます。

これらの「またぐ」ことを通して、クラスは開かれます。子どもたちに、人とかかわる選択肢はいくつもある、居場所はいくつもあることを知らせることは、人間関係は教室の中だけではないことに気付かせることになります(開放化)。空間の「間合い」です。また、そもそも、子どもの時に、いろんな人に会う、かかわり合うことは、大きな刺激です。心の豊かさやたくましさを育みます。

このように、クラスが開かれていることで、クラスが「意気投合」「一致団結」して、みんなでターゲットを無視したり悪口を言うことが難しくなっていきます。ターゲットにされた生徒は、たとえ、無視される相手がいたとしても、別の人間関係でかかわりを持てる相手がいる以上、ただ、無視された相手との付き合いがなくなるだけになります。こうして、健康的な心の間合い(心理的距離)ができていくのです。

 

b. 私たちが生かす取り組み

 このように集団が開かれていることは、いろいろな外部へ目を向けることができます。その取り組みとしては、他のグループや科との勉強会や学会への参加です。つまり、情報も循環させる必要があります。

さらに、集団が開かれることのもう1つの良さは、いろいろな外部からの目も向けられるということです。それは、監査からの目だけではなくなります。学生を受け入れることが決まってから、学生の目を気にして、急に病棟の雰囲気が変わったという病院がありました。

学生やボランティアなどの外部のメンバーを定期的に受け入れることで、自分たちは彼らからどう見られるかとの客観的な視点に立つことができます(客観化)。そして、世の中での標準的な医療のあり方とはどういうものかという自分たち自身への意識付けにもつながっていきます(標準化)


3 クラスのルール(集団規範)がブレないための取り組み

 

犯罪レベルのいじめ

犯罪レベルではないいじめ

①加害者

いじめは許されないこと、警察通報・被害届を出すということを伝え、貼り紙などで目に見える形にもする。

②被害者

いじめがなくなる保証をする

③傍観者

報告義務・通報義務があることを伝える

④教師

複数担任制

⑤学校

いじめを解決したことを評価する

学校教育

反省文

奉仕活動

 

 

(2)ルール(集団規範)がブレないこと―表3

学校社会は、「教育の聖域」として閉ざされていることで、外で起きた問題が中に入って来ないので、最も安全で守られた場所のはずでした。しかし、現在では、中で起きた問題が外に出て行かないので、最も危険な場所になっています。皮肉な話です。

私たちは、いじめという言葉に惑わされすぎています。今まで、「いじめ」という名のもとに学校での犯罪行為が放置されてきました。問題は、いじめそのものではなく、恐喝、傷害、暴行、窃盗などの犯罪行為が学校で起こったというだけで「いじめ」という教育の問題として処理され、不問にされ、隠蔽され、事実上、野放しにされていることです。つまり、学校が無法地帯だということです。

そこで、この学校の中の無法地帯を学校の外の市民社会と同じようにするためには、何が必要でしょうか?もう1つの対策は、学校の外のルールと同じように、学校の中のルール(集団規範)がブレないことです。ここから、いじめを、犯罪レベルのいじめと犯罪レベルではないいじめに分けて整理して見ていきましょう。

 

犯罪レベルのいじめ

a. 学校以外の場所で行われているとしたら

映画の中で、少年Aと美月が教室で手足の自由を奪われ、無理矢理キスをさせられるシーンがありました。もしも、この行為が学校以外の場所、例えば駅前のカラオケ店の一室で行われていたとしたら、どうなるでしょうか?きっと見つけた店員は警察通報するでしょう。つまり、犯罪レベルのいじめとは、その後に教師が介入できたとしてもできなかったとしても、カラオケ店で行われていたとしたら、そこの店員はすぐに警察通報するというレベルであることです。

また、少年Aのノートなどの持ち物への落書きや、それらをゴミ箱への投げ捨て、教室の窓からの投げ落としのシーンでは、それらがカラオケ店の備品と考えればどうでしょうか?実際、このような行為が繰り返され、学校の介入でも改善されないのであれば、やはり、加害者を特定して、録画などの証拠を持参し、学校が警察に被害届を出すべきです。

 しかし、実際の学校ではどうでしょうか?生徒への「教育的配慮」や、生徒との「信頼関係」を理由に、警察の介入を望まない教師や学校が多いのではないでしょうか?もちろん、生徒・教師・保護者の間の信頼関係をもとにした教育的配慮は必要です。しかし、誰かを傷付けている犯罪レベルの状況で、加害者の生徒を学校の外のルールに委ねないことに一体、どんな「教育的配慮」や「信頼関係」の意味があるのでしょうか?そんな状況で、そもそも被害者はどうなるのでしょうか?

 

b. 被害者への取り組み―「絶対に死ぬな」とは言わない

 映画の熱血教師のウェルテルは、授業中に、クラスメート全員の前で、いじめの被害者は少年Aだと名指しします。そして、「それぞれの個性をどんどん磨いていってほしい」との話にすり替わり、「みんなもう二度とやるなよ」などとのニュアンスで力強く一方的に説教して終わります。具体的にどんないじめなのか、具体的にどうしていくのかなどの話し合いが一切ありません。

 いじめ自殺が騒がれる昨今、被害者へのかかわりが注目されています。ウェルテルのような熱血教師なら、いじめ被害者に「命の大切さ」を語り、「絶対に死ぬな」と言いそうではないでしょうか?しかし、実は、このかかわりは、効果が期待できないばかりか、逆に、とても危ういのです。

 なぜなら、「命の大切さ」を強調することは、「大切にされていない自分の命は何なんだ」と被害者を混乱させてしまい、追い詰めてしまうリスクがあるからです。さらには、「絶対に死ぬな」と説教したとしても、いじめによって思考が「麻痺」している被害者には、「死ぬか生きるか」という究極の2択を指し示すことになってしまい、結果的に自殺のリスクを高めてしまいます。
 被害者へのかかわりとして、優先的なことは、加害者に絶対にいじめをさせない具体的な厳しい取り組みをすることを保証することです。間違っても、被害者に、「仲良くしなさい」と説教したり、加害者と無理矢理に握手させようとしないことです。

c. 加害者への取り組み―モラルだけではなく、ルールにも訴える

加害者が特定できたとしたら、ウェルテルなら「いじめは良くない」と涙目で熱く語るでしょう。しかし、このようにモラルに訴えるのには、限界があります。なぜなら、いじめは集団心理の病理だからです。そして、彼らにとってモラルよりも「おもしろさ」が上回ってしまうからです。さらに言えば、彼らは反抗期の真っただ中で、人権やヒューマニズムなどのきれい事や「大人の正論」は生理的に受け付けられないという心理の発達段階にあるからです。

 よって、「いじめは良くない」というモラルに訴えるだけでなく、「いじめは許されない」「いじめは罰せられる」というルールに訴えることが必要不可欠です。つまり、いじめは、犯罪レベルであれば、学校であっても、教師の裁量によってではなく、その行為そのものによって、警察通報され、司法の介入があるというメッセージを生徒に伝えることです。もっと言えば、いじめかどうかについて判断する前に、暴力などの犯罪があったかどうかについてまず判断するということです。犯罪レベルのいじめをした場合には、学校の「教育的配慮」や、教師との「信頼関係」だけではもはや限界があるということをあらかじめ生徒に伝えることです(限界設定)

 この警察通報が「自動的」になされるという限界設定は、いじめの抑止の効果を大いに期待できます。さらには、それでもいじめが事例化した時は、その加害者のためにもなるということです。なぜなら、警察通報されると分かっていてもいじめをする加害者は、家族の問題や発達の問題を抱えている可能性が高いからです。これらの問題は、学校教育だけでは太刀打ちできません。児童相談所の一時保護などの社会的な介入や精神医学的な評価による医療的な介入が早期に必要になります。誤解されがちですが、いじめの警察通報は、懲罰が目的ではなく、あくまで教育や更生が目的だということです。

 さらには、暴力などの犯罪レベルのいじめを見た他の生徒は、その場で介入できないとしても、少なくとも市民社会のルールとして、教師や管理者への報告義務、場合によっては警察への通報義務があることを教師からはっきり伝えることです。さきほどの例にあげたカラオケ店の店員がもし「見て見ぬふり」をしたら、通報義務を怠ったと咎められるでしょう。咎められるのは学校の外でも中でも同じことであることを、教師は生徒に伝えるだけでなく、教室に貼り紙を貼るなどみんなが見える形にする取り組みも必要です。

 

d. 教師への取り組み―複数担任制

映画の中で、ウェルテルは、少年Bの不登校を抱え込んでいます。同僚や校長には、一切相談していません。この「抱え込み」の心理は、全て自分で解決しよとするあまりに独りよがりになってしまい、生徒との「信頼関係」が「身内」「見逃してやる」にすり替わってしまう危険性があります。同調的な日本文化のもとで、「信頼関係」は、「馴れ合い」「甘え」と紙一重でした(1)

つまり、「教育的配慮」という大義名分のもと、この「信頼関係」によって、「学校が犯罪を『いじめ』というだけのことにしてくれる」「学校の中なら先生がもみ消してくれる」という動機付けを生徒にさせてしまい、結果的に、いじめ加害者を作り出しているとも言えます。

そもそも、教師の社会が、チームプレイではなくなってきている現実があります。教師への評価制度の導入によって、教師も実は、生徒と同じように管理され、競争させられているという現実があります。これは、教師への評価制度の1つの弱点と言えます。

 よって、自発的に相談することが難しいなら、生徒を教師が複数で見るという連携と責任の共有の仕組みを作る必要があります。複数担任制です。また、いざという時は、警察通報という限界設定があることで、警察という学校の外部の目が入るという心理によって、警察官から自分たちはどう見られるかという教師自身への意識付けにもなり(客観化)、学校の開放化につながります。

 

e. 学校への取り組み―評価する仕組みを変える

さらに根深い問題は、生徒たちが期待する「もみ消し」「握りつぶし」を学校側が自発的に行うこと、つまり、学校の隠蔽体質です。どうして、「正しくあるはず」の学校に隠蔽体質が起こってしまうのでしょうか?それは、実は「正しくあるはず」という私たちの固定観念そのものが、学校を隠蔽体質に追い込んでいるとも言えます。なぜなら、いじめの発生自体、教師や学校しては「正しくあるはず」出来事ではないからです。つまり、いじめの発生自体で、教師や学校の管理責任を問われてしまう可能性があるので、教師も学校も自分の評価を下げたくないのです。こうして、いじめは、「なかったこと」にされ、うやむやにされてしまいがちになります。そして、学校の隠蔽体質はより大きくなっていくのです。

いじめは、集団心理の問題や加害者の家族や発達の問題などが絡むため、もはや、教育現場だけの取り組みや心構えでは、最初から「撲滅」することは不可能なのです。世の中で広く共有すべきは、学校でいじめは起きるものだ、大事なのは、起きたかどうかではなく、どう解決したかであるということです。

いじめが起きたことだけで、教師や学校を責めるべきではないということです。いじめを「起こさなかった」教師や学校が評価されるのではなく、いじめを「解決した」教師や学校が評価される仕組みを作る必要があります。また、生徒からいじめの報告を受けた教師は、どう対処したかの報告義務があるようにします。このような仕組みへ早急に改善していく必要があります。

 

犯罪レベルではないいじめ―いじめの「予防ワクチン」

まず、そもそも人が社会的な動物である限り、いじめはいつでも生まれてしまうことを理解しなければなりません。そして、大事なのは、それぞれのいじめを大きくさせないこと、長引かせない仕組みを作ることです。

皆さんは、テレビのいじめ報道で、「いじめ撲滅」などというスローガンを掲げている学校をよく見かけませんか?よくよく考えてみれば、人間が序列を好む社会的な動物であり、いじめに本能的な要素があるという現実を直視する以上、「いじめ撲滅」は実現不可能な「おとぎ話」です。

仮に実現したとして、果たして子どもがいじめに対して「無菌状態」になっていいのかという問題もあります。なぜなら、大人の社会でも、いじめはれっきとしてあるからです。むしろ、いじめへの「免疫力」を付けるために、「予防ワクチン」として「小さないじめ」は必要ではないかということです。悪口を言われたり無視されたりするなどのコミュニケーションタイプの「小さないじめ」は、心理的な成長の発達段階においてある程度は経験した方が、被害者は自分自身を見つめ直し、そして相手との力関係をそこで認識しようとします。大人のいじめへのトレーニングとしてむしろ良いかもしれないということです。

 大事なのは、コミュニケーションタイプのいじめが、ベタベタ感(集団凝集性)のコントロールによって、小人数でしかもすぐに終わらせることです。それでも、終わらない時こそ、まさに、学校教育の出番になります。反省文を書かせたり、奉仕活動をさせるなどのルールを明確に設けることです。

 

③私たちが生かす取り組み

同調性が高い日本文化に生きる私たちだからこそ、逆に、ルール(集団規範)が揺らぐ危うさを知っておかなければなりません。そして、ルールがブレないような取り組みが必要です。その取り組みは、大きく3つあります。

1つ目は、管理者がルールのモデルとなることです。例えば、管理者が、性格的に優しすぎて「なあなあ」であったり、精神的に弱っていたりするなど、統率力が弱まっている時は危ういということです(アノミー)

2つ目は、管理者はブレないことです。例えば、管理者が感情的で、時間や状況によって態度が極端に違う場合や(ダブルバインド)強気なスタッフがミスした時は、気を使って受け流す一方、弱気なスタッフには小言が多いなど、管理者が相手によって態度を変えている時は危ういです(ダブルスタンダード)。また、集団内でのトラブルが起きたら、隠さず、オープンにすることです。そして、ブレない公平なルールに乗っかるべきです。私たち日本人は、トラブルで目立つことは迷惑になり恥ずかしいと思いがちです。しかし、隠すことが、この映画のような閉鎖性や葛藤を生み出します。トラブルにこそ「見える」化が必要です(客観化)

3つ目は、集団のメンバーの大半が、適度な心の間合いを持つことです(心理的距離)。例えば、個人的なことに無暗に首を突っ込んだり、共通の敵をつくろうと誰かの悪口を盛んに言い、共感を求めようとする人がいる時は危ういです。そういう時は、「そうなの?」と話は聞いて受容しつつ、「私、鈍くてよく分からない」とはっきりしたことを言わず、同調をしないのがコミュニケーションのコツです。

 以上のように、集団が、同調やトラブル隠しによる葛藤や緊張などの感情の高ぶりが少なく、ルールという理性がうまく働き、ブレていないかが健康的な組織作りのコツになります。


4 健康的な組織作り

 

ベタベタ感(集団凝集性)

をコントロール

ルール(集団規範)

がブレない

「見える」化

(客観化)

①多様化

違う経歴や出身

悪魔の擁護者

②流動化

人材の循環

③開放化

他のグループや科との勉強会や学会(情報の循環)

学生やボランティアの受け入れ

管理者がルールのモデル

管理者がブレない

スタッフが心の間合いを保つ

外部に目を向ける

外部の目を入れる

トラブルはオープンにする

 

 


健康的な組織作り―表4

映画「告白」を通して、いじめのメカニズム、具体的ないじめ対策、私たちが生かす取り組みを探ってきました。キーワードは、同調です。そして、この同調は、具体的ないじめ対策で提案した、ベタベタ感(集団凝集性)のコントロール、ルール(集団規範)がブレないことに加えて、私たちが生かす取り組みで触れた「見える」化(客観化)を合わせた3つの要素でバランスをとることができます。

私たちは、これら3つの要素をより見つめ直していくことで、より健康的な組織作りができるのではないかと思います。

 


参考文献

「告白」(双葉文庫) 湊かなえ

「いじめの構造」(講談社現代新書) 内藤朝雄

「いじめの構造」(新潮社) 森口朗

「教室の悪魔」(ポプラ文庫) 山脇由貴子

「ヒトはなぜヒトをいじめるのか」(講談社) 正高信男