【4ページ目】2013年1月号 映画「告白」【その3】じゃあどうしたらいいの?―いじめ対策

c. 加害者への取り組み―モラルだけではなく、ルールにも訴える

加害者が特定できたとしたら、ウェルテルなら「いじめは良くない」と涙目で熱く語るでしょう。しかし、このようにモラルに訴えるのには、限界があります。なぜなら、いじめは集団心理の病理だからです。そして、彼らにとってモラルよりも「おもしろさ」が上回ってしまうからです。さらに言えば、彼らは反抗期の真っただ中で、人権やヒューマニズムなどのきれい事や「大人の正論」は生理的に受け付けられないという心理の発達段階にあるからです。

よって、「いじめは良くない」というモラルに訴えるだけでなく、「いじめは許されない」「いじめは罰せられる」というルールに訴えることが必要不可欠です。つまり、いじめは、犯罪レベルであれば、学校であっても、教師の裁量によってではなく、その行為そのものによって、警察通報され、司法の介入があるというメッセージを生徒に伝えることです。もっと言えば、いじめかどうかについて判断する前に、暴力などの犯罪があったかどうかについてまず判断するということです。犯罪レベルのいじめをした場合には、学校の「教育的配慮」や、教師との「信頼関係」だけではもはや限界があるということをあらかじめ生徒に伝えることです(限界設定)。

この警察通報が「自動的」になされるという限界設定は、いじめの抑止の効果を大いに期待できます。さらには、それでもいじめが事例化した時は、その加害者のためにもなるということです。なぜなら、警察通報されると分かっていてもいじめをする加害者は、家族の問題や発達の問題を抱えている可能性が高いからです。これらの問題は、学校教育だけでは太刀打ちできません。児童相談所の一時保護などの社会的な介入や精神医学的な評価による医療的な介入が早期に必要になります。誤解されがちですが、いじめの警察通報は、懲罰が目的ではなく、あくまで教育や更生が目的だということです。

さらには、暴力などの犯罪レベルのいじめを見た他の生徒は、その場で介入できないとしても、少なくとも市民社会のルールとして、教師や管理者への報告義務、場合によっては警察への通報義務があることを教師からはっきり伝えることです。さきほどの例にあげたカラオケ店の店員がもし「見て見ぬふり」をしたら、通報義務を怠ったと咎められるでしょう。咎められるのは学校の外でも中でも同じことであることを、教師は生徒に伝えるだけでなく、教室に貼り紙を貼るなどみんなが見える形にする取り組みも必要です。

d. 教師への取り組み―複数担任制

映画の中で、ウェルテルは、少年Bの不登校を抱え込んでいます。同僚や校長には、一切相談していません。この「抱え込み」の心理は、全て自分で解決しよとするあまりに独りよがりになってしまい、生徒との「信頼関係」が「身内」「見逃してやる」にすり替わってしまう危険性があります。同調的な日本文化のもとで、「信頼関係」は、「馴れ合い」「甘え」と紙一重でした(表1)。

つまり、「教育的配慮」という大義名分のもと、この「信頼関係」によって、「学校が犯罪を『いじめ』というだけのことにしてくれる」「学校の中なら先生がもみ消してくれる」という動機付けを生徒にさせてしまい、結果的に、いじめ加害者を作り出しているとも言えます。

そもそも、教師の社会が、チームプレイではなくなってきている現実があります。教師への評価制度の導入によって、教師も実は、生徒と同じように管理され、競争させられているという現実があります。これは、教師への評価制度の1つの弱点と言えます。

よって、自発的に相談することが難しいなら、生徒を教師が複数で見るという連携と責任の共有の仕組みを作る必要があります。複数担任制です。また、いざという時は、警察通報という限界設定があることで、警察という学校の外部の目が入るという心理によって、警察官から自分たちはどう見られるかという教師自身への意識付けにもなり(客観化)、学校の開放化につながります。

e. 学校への取り組み―評価する仕組みを変える

さらに根深い問題は、生徒たちが期待する「もみ消し」「握りつぶし」を学校側が自発的に行うこと、つまり、学校の隠蔽体質です。どうして、「正しくあるはず」の学校に隠蔽体質が起こってしまうのでしょうか?それは、実は「正しくあるはず」という私たちの固定観念そのものが、学校を隠蔽体質に追い込んでいるとも言えます。なぜなら、いじめの発生自体、教師や学校しては「正しくあるはず」出来事ではないからです。つまり、いじめの発生自体で、教師や学校の管理責任を問われてしまう可能性があるので、教師も学校も自分の評価を下げたくないのです。こうして、いじめは、「なかったこと」にされ、うやむやにされてしまいがちになります。そして、学校の隠蔽体質はより大きくなっていくのです。

いじめは、集団心理の問題や加害者の家族や発達の問題などが絡むため、もはや、教育現場だけの取り組みや心構えでは、最初から「撲滅」することは不可能なのです。世の中で広く共有すべきは、学校でいじめは起きるものだ、大事なのは、起きたかどうかではなく、どう解決したかであるということです。

いじめが起きたことだけで、教師や学校を責めるべきではないということです。いじめを「起こさなかった」教師や学校が評価されるのではなく、いじめを「解決した」教師や学校が評価される仕組みを作る必要があります。また、生徒からいじめの報告を受けた教師は、どう対処したかの報告義務があるようにします。このような仕組みへ早急に改善していく必要があります。