連載コラムシネマセラピー
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
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・進化医学
・報酬系(ドパミン)
・問題飲酒(プレアルコホリズム)
・否認
・共依存
・心の居場所
・毒をもって毒を制す
・生き方のコントロール
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皆さんは、アルコール依存症の人たちとかかわったことはありますか? 彼らは、なぜアルコール依存症になるのでしょうか? そもそもなぜアルコール依存症は「ある」のでしょうか? そして、どうすれば良いのでしょうか?
これらの疑問を解き明かすために、今回、2010年の映画「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を取り上げます。 この映画の原作者は、「毎日かあさん」などを代表作とする漫画家の西原理恵子さんの元夫です。
実際にアルコール依存症になり、最後は末期がんが判明するまでの彼とその家族の様子が赤裸々に描かれ、 笑いと共感を誘います。また、描写が忠実であるため、アルコール依存症の理解を深める教材としても最適です。 この映画を通して、依存症の心理を、進化医学的な視点で解き明かし、回復のポイントを探っていきましょう。
主人公の安行は38歳の元戦場カメラマン。
本を書いたことはありましたが、定職には就かず、毎日、酒をひたすら飲み続けてきました。
彼は、それを「朝から晩までのノンストップの飲酒マラソン」と言い表します(連続飲酒)。
かつて、酒を飲んでは妻の由紀に絡み、暴言を吐き、引っぱたくなどの暴力を振るい、
挙句の果てに、妻が一生懸命に描いた大切な漫画の原稿を破り捨てたことがありました(脱抑制)。
そして、「(実の子どもたちを)おれの子じゃねえ」「太田(安行の親友)とやったんだろ!?」と言い出し、怒り出したこともありました。
アルコール依存症の人は、自分に引け目があるため、妻が自分に愛想を付かせて浮気をするのではないかという不安から妄想に発展しやすくなります(嫉妬妄想)。
現在、安行は、由紀とは離婚し、2人の子どもとも別れて、実家で母親と暮らしています。居酒屋では飲み過ぎて気を失い(ブラックアウト)、嫌がる店員たちに介抱されます。意識がもうろうとする中、介抱する由紀と子どもたちの幻覚が現れます。帰り道に酒を買い、自宅でさらに飲み続けると、「何とかなるよ、まあ酒でも飲めよ」という自分に都合の良い幻覚も現れます(願望充足型の幻覚)。
その後、失禁をして、吐血もします。吐血(食道静脈瘤破裂)はとうとう10回目に達していました。
安行は、断酒を決意します。クリニックで処方された抗酒薬(アルコールを飲むと体調不良になる薬)を飲むのですが、それも束の間。すぐにお酒が欲しくてたまらなくなり(渇望)、ふらふらと探し求め(探索行動)、けっきょくお酒を飲んでしまいます。そして、抗酒薬の効き目で倒れてしまいます。
安行の様子は、以下のアルコール依存症の診断基準に照らし合わせると、11項目のほぼ全てを満たしています。安行は、典型的なアルコール依存症です。
由紀の友人の医師が「(原因は)環境もありますね」「挫折感とか劣等感とかそういったものが引き金になることもある」と言います。ここで、安行がアルコール依存症になった原因として、その危険因子を、個体因子と環境因子に分けて、整理してみましょう。
①個体因子
個体因子としては、まず体質(生物学的感受性)、つまりアルコールの欲しやすさ(嗜癖性) が挙げられます。これは、お酒が好きになる人とならない人という個人差です。嗜癖性が強ければ強いほど、機会飲酒から習慣飲酒、そして連続飲酒に至りやすくなります。昨今の双子研究や養子研究により、酒好き(嗜好性)は約50%遺伝することが分かっています。実際に安行の父親もアルコール依存症でした。さらに、アルコール摂取が1日5合以上、週5日以上、5年以上で多くの人はアルコールをやめられなくなる、つまりアルコール依存症になることが指摘されています。一方、法律で禁止されている覚醒剤は、一度摂取するとすぐにやめられなくなります。つまり、アルコールは、欲する体質に加えて、量と時間をかけることで、人にとって覚醒剤と同じものになってしまうということです。
もう1つは、アルコール依存症に関連した独特の気質、つまりアルコール依存症ならではの性格(パーソナリティ特性)が挙げられます。これには、3つの特徴があります。
1つ目は、ついやってしまう軽々しさです(衝動性)。安行は、10回目の吐血をした時、由紀に「あーごめん、またやっちゃったよ」と謝ります。断酒を誓って抗酒剤を飲んだ直後、食べた奈良漬けのアルコール分が引き金となり、「たかがビールだもんな」「大丈夫だよ、これくらい」とつい飲んでしまいます。また、入院中に、制限されている食事であると言われているのに、診察中に「(回復の兆し)だったらカレー食わせろよ!」と主治医につい怒鳴っています。この特徴は、注意欠如多動性障害(ADHD)との関連も指摘されています。
2つ目は、とても寂しがり屋であることです(愛着不全)。安行は再び飲んでしまう直前に、由紀と子供たちと別れて「寂しいよ」「悲しい」とつぶやいています。この特徴は、 反応性愛着障害との関連も指摘されています。
3つ目は、助けを当てにすることです(依存性)。安行は、「ほんとのほんとに(酒を)やめるよ」と断酒の宣言を繰り返しています。飲んだ直後に、抗酒薬の影響で、倒れて頭を打って流血して、由紀と母親にまた迷惑をかけた時、呆れて何も言わない2人に向かって「なんか言わないの?」「説教とかないんだ」と物足りなく感じています。説教されることで関係性が保たれ、今後も助けてもらえる保証を得たいのです。この特徴は、依存性パーソナリティ障害との関連も指摘されています。
これらの性格の傾向が強ければ強いほど、お酒をやめられなくなります。さらに、長期間の大量の飲酒によって、頭の働きが弱まり(認知機能障害)、この特性がますます際立っていくのです。
②環境因子
環境因子としては、まずストレスが適度に一定ではないことが挙げられます。安行は、もともと戦場カメラマンです。危険な仕事であることやフリーランスで収入が不安定であることは大きなストレスです。そのストレスが多ければ多いほど、そのストレスを和らげるための飲酒量が増えていきます。それでは、逆にストレスが全くない状況が良いでしょうか? 仕事をしていないなどやることがない状況では、刺激を求めて暇つぶしで飲酒量が増えてしまいます。これは、仕事人間だったサラリーマンが退職後に暇を持て余して、朝からお酒を飲み続けてしまうことと同じです。つまり、ストレスは、多すぎることもなく少なすぎることもなく、適度で一定であることが望ましいのです。
もう1つは、アルコール依存症を助長する周りとの独特な人間関係(共依存)が挙げられます。これには、3つの特徴があります。
1つ目は、周りが流されやすいことです(同調)。
母親のかかわり方をみてみましょう。安行が病院で3日ぶりに目覚めて起き上がろうとすると、母親は「だめ!ベッドで安静にって言われてる」と言いつつ、「ちょっとだけ上げてみよっか」と言います。この「ちょっとだけ」は依存症の人たちやその家族がよく使うキーワードです。「だめなものはだめ」とは対照的な言い回しです。
2つ目は、周りが助けすぎることです(過保護)。
母親は「そんなに死にたけりゃ独りでどっか行って勝手に死んでちょうだい」「家族を巻き添えにしないで」「あとはどうとでも好きにすればいいわ」と厳しく言っていますが、無職の安行を実家で養い、酒を買う金を与え、毎回、トラブルが起きると助けます。入院中も付きっきりです。放っておかずに、毎回、巻き込まれています。言っていること(言語的コミュニケーション)とやっていること(非言語的コミュニケーション)が一致しません(ダブルバインド)。
このような状況では、やっていることの方がまさって伝わるため、けっきょく厳しい言葉に逆の意味が込められてしまいます。それは、このパターンが繰り返されることで、「(なんだかんだ言うけど)けっきょくどんな時もあなたを助けるわよ」という逆のメッセージとして強調されて伝わっていくのです。由紀も同じコミュニケーションのパターンをとっています。由紀が入院中の安行のお見舞いに来た時、「そのうちコロッと逝くね、あんた」と子どもたちの前で悪い冗談を言います。そして、子どもたちがいなくなると、「このばかちん」と言い、すでに離婚しているのに、安行にキスをします。由紀は、子どもたちのためとは言え、けっきょく安行が好きで放っておけないのです。
3つ目は、周りが手なずけたがることです(過干渉)。
母親は、アルコール依存症の専門病棟に入院させるために、有無を言わさず安行を連れ出し、「ここは精神病院。あなたは入院するんです」と一方的に言い放ちます。安行が手ぶらなのに対して、母親は安行の重そうな荷物を運んでいます。なお、映画では強制的に入院されているように描かれていますが、実際は、人権擁護の観点から、そして本人の主体性が治療動機に重要であるという観点から、依存症病棟には、本人の同意による任意入院が一般的です。
依存とは、「依(よ)って存(あ)ること」、つまり何かに頼って生きることで、私たち人間に必要なことです。その何かとは、食べ物や飲み物など体に取り入れるもの(物質の依存)であり、生活習慣などの行動パターン(過程の依存)であり、家族やその周囲とのつながり(人間関係の依存)です。そして、依存症とは、これらにのめり込んでコントロールできなくなること、つまりはやめたくてもやめられなくなることです。
ここから、安行の状況に照らし合わせながら、アルコール依存症を、飲酒そのもの(嗜好の依存症)、飲酒までに至る行動パターン(行動の依存症)、その行動パターンを支える人間関係(人間関係の依存症)の3つの要素に分けて整理してみましょう。
①アルコールをコントロールできない―嗜好の依存症―図2
安行は、入院してしばらくの間、アルコールによる胃腸の障害から、食事が制限されていたため、定期的に献立になっているカレーライスを食べることができませんでした。その後に食事制限がなくなり、目の前のカレーライスを見た時、彼の胸は高まります。そして、病院食の普通のカレーライスを格別な気分で幸せそうに頬張るのです。また、私たちは喉がカラカラの時に水をとてもおいしく感じます。しかし、普段、水はただの水で、おいしいとは感じません。水に限らず、塩、糖、タンパク質、脂肪などもともと自然界にあるものも同じです。
このように、私たちの脳は、不足すると気になり(サリエンス)、欲しくなります(渇望)。摂取すると気持ち良くなります(快感)。そして満足すると飽きてきます(無関心)。そうなるように調節が働き(フィードバック)、一定の健康状態を維持しています(恒常性)。これは、私たちがより適応的な行動をするために進化したメカニズムです(報酬系)。
ここで、私たちの脳を車に例えてみましょう。すると、報酬系のメカニズムはエンジン(ドパミン)です。何かが足りないストレスの状態(興奮)では、アクセル(ノルアドレナリン)が踏まれ、そのアクセルでエンジン(ドパミン)の回転数も上がります。一方、満たされているリラックスの状態(抑制)では、ブレーキ(GABA)が踏まれ、そのブレーキでエンジン(ドパミン)の回転数も下がります。
ところが、アルコールを摂取すると、代わりのブレーキ(ベンゾジアゼピン受容体)が踏まれ、リラックスの状態になります。それは、本家のブレーキ(GABA)の働きを阻み、このブレーキ(GABA)が利かなくなることでエンジン(ドパミン)の回転数が逆に上がってしまうのです。これが、酩酊感や高揚感という気持ちの良い状態です。
さらに、多量のアルコール摂取によってエンジン(ドーパミン)の回転数が上がりすぎる、つまり空回転するとどうなるでしょうか? これが、酒乱(中毒せん妄)、泣き上戸や笑い上戸(脱抑制)と呼ばれる悪酔いの状態です。この状態は昔では宗教的な意味付けがされていました。アルコール摂取の問題点は、エンジン(ドパミン)の回転数を上げるばかりで下げるメカニズムがないので、やがていつも欲しくなってしまうのです(精神依存)。お酒が世界の全てになってしまい、起きている時はお酒のことしか考えず、問題が起きてもお酒を飲み続けます。
さらには、アルコールが一定濃度、体に満たされ続けるとやがてそれが定常状態になる、つまりアルコールが脳にとって「あるべきもの」になります。よって、アルコールを切らしてしまうと、脳が異常と誤って感知して、禁断症状(離脱症状)が出てしまうようになります(身体依存)。こうして、アルコールの摂取をコントロールできなくなるのです(物質の依存症)。
なお、覚せい剤では、エンジン(ドパミン)の回転数を直接的に上げるため、高揚感を伴う興奮が得られます。よって、アルコールが「ダウナー」(抑制性薬物)と呼ばれるのに対して、覚せい剤は「アッパー」(興奮性薬物)と呼ばれます。
ちなみに、ベンゾジアゼピン系薬剤である睡眠薬や抗不安薬も、副作用としてアルコールと同じように「悪酔い」(脱抑制、中毒せん妄)を引き起こすリスクがあります。しかし、精神科を専門としない医師がよくやってしまう間違いとして、もともとの脱抑制やせん妄の患者に対して、落ち着かせようとしたり眠らせようとして、ベンゾジアゼピン系薬剤を投薬し、その後に症状を悪化させるケースがあります。脱抑制やせん妄には、原則として、ベンゾジアゼピン系薬剤を投薬しないように注意する必要があります。
②行動をコントロールできない―行動の依存症
安行は、入院中、周りの患者たちがカレーライスを食べているのに自分だけ食べられないことに腹を立てて、「何だよ、ケンカを売る気かよ」「売られたケンカは買ってやろうじゃないの」とわざと独り言を言って看護師を威圧しています。患者同士が言い争いをしている時、安行は直接関係がないのに、良く思っていない方に「てめえが帰れ、くそじじい」とぼそっと小さな声でわざと挑発し、殴られてしまいます。
また、かつて戦場カメラマンとして命の危険にさらされたり、作家として生計を立てようとしたりと、ギャンブルのような不安定な生活をあえて選んでいます。一見、男らしくも見えます。この男らしさに由紀は惚れてしまっているのでした。
このように、安行にはアルコール依存症ならではの独特な行動パターンがあります。本来、行動パターンとは、生存や生殖に有利になるために進化した本能・習性や学習能力です。これは、脳の神経回路に刻み込まれるもので、一度覚えたらなかなか忘れません。例えば、自転車の運転や水泳のような運動神経から、食事や睡眠リズムのような生活習慣、プラス思考やマイナス思考のような思考パターンまで様々あります。生存や生殖という目的に向かって、遺伝的な傾向をもとに記憶や経験が快感(報酬)と結び付いて、そう行動するようにエンジン(ドパミン)の回転数が上がるというわけです。
安行の行動パターンの問題点は、アルコールをコントロールできていない以前に、自分の感情や行動をコントロールできていないことです(行動の依存症)。言うならば、飲む前から酔っ払っている、つまり、しらふでも行動が酔っ払っています(空酔い、ドライドランク)。これは、アルコール依存症にまだなっていない人で、アルコールでトラブル(問題飲酒)を繰り返し起こす人にも当てはまります(プレアルコホリズム)。
本来、アルコール依存症にならない人は、ストレスを溜め込んで飲酒量が増えたり、問題飲酒などうまく行かないことが起きた時点で、周りの意見に耳を傾け、自分を振り返り、早い段階で行動パターンを修正します。しかし、アルコール依存症になる人は、この修正をなかなかしません。その原因は、「まだ大丈夫」「それほど重くない」「やめようと思えばやめられる」と考えて、問題の深刻さに薄々気付いてはいるのですが、それをはっきり認めようとしない否認の心理があるからです。アルコール依存症は「否認の病」とも呼ばれます。この否認の心理によって、アルコール依存症を完成させてしまうのです。
それでは、安行にはなぜ否認の心理があるのでしょうか? その答えは、彼の父親が「教えた」からです。安行は、母親から「2人の子どものことだけはよーく考えてください」と言われると、「おやじは考えてくれなかったよね、子ども(安行)のこと」と言い返します。実際に、「(父親は)毎日のように酒を飲んでは母親に暴力をふるっていました」と入院患者たちに語っています。
ここから分かるのは、彼の父親は、子ども(安行)のことだけでなく、自分のことも考えることができない不安定な行動パターン(否認)の悪いお手本(モデル)を見せていたことです。そして、安行は、父親から否認の仕方を「学んだ」のでした。安行は飲酒を中学生から始めています。本来、父親というものは子どもに生き方(社会)のルールを教える役割(父性)があるはずですが、それがないのです(父性不在)。
安行は、入院中に「やっちゃったよ。父さんの真似なんかしたくないのに」と嘆いています。体験発表で「けっきょく嫌いだった父親と同じことをしてしまっていたんです」と振り返ります。一方、お見舞いに来た小学生の息子は、安行に「父さん、何やってんだよ」と笑っていいます。まさに否認という行動パターンの「文化」が脈々と受け継がれようとしている危うさが読み取れます(世代間連鎖)。
③人間関係をコントロールできない―人間関係の依存症
安行は、入院して、初対面の若い看護師にいきなり下の名前を聞き出します。また、主治医の女医に「なんでコンタクトにしないんですか?」と個人的な質問をします。人懐っこくて相手の懐に飛び込むのにとても長けていることが分かります。このように、安行には心理的距離が近すぎる独特の人間関係があります。本来、人間関係とは、生存や生殖に有利になるために、約300万年前に進化した社会性(社会脳)です。これは、周りとうまくやる能力であり、助け合い(協力)の心理であり、人間関係における行動パターンとも言えます。
安行が築く人間関係の問題点は、心理的距離が近すぎて相手との境界(バウンダリー)が弱まっているために、その人間関係をコントロールできていないことです(人間関係の依存症)。言うなれば、人間関係も酔っ払っています。例えば、安行は、母親の保護や由紀の支援に甘んじて頼り切ってしまい、迷惑をかけっぱなしです。「すいまんせん」「反省しています」と言うわりに、同じことを繰り返しています。これは依存の心理(依存パーソナリティ)です。
それでは、安行にはなぜ依存の心理があるのでしょうか? その答えは、彼の母親が「教えた」からです。彼女のかかわり方は、良く言えば優しくて献身的ですが、悪く言えば過保護で過干渉で支配的です。彼女は、必要とされることを必要としている、言い換えれば依存されることに依存しています(共依存)。そのかかわり方を、かつてアルコール依存症の自分の夫にし続けました。
彼女は華道の先生ですが、生徒たちに「この枝は『私はここ(生ける場所)に入りたい』と言っていました」「なんて、枝がそんなこと言うわけありませんよね」「ただ私が勝手にそう思っただけです」「でも昔、私はこの勘で夫の浮気を見破りました(笑)」と冗談を交えて説くシーンにその傾向が現れています。
そして、当時に同じようなかかわり方を子ども時代の安行にもし続けてきたのです。安行は、母親を相手に人間関係での依存の仕方を小さい頃から「学んだ」のでした。本来、母親というものは子どもに安心感や安全感を与える役割(母性)があるはずですが、それが行きすぎています(母性過剰)。
そして、実は、由紀はこの安行の母親と似ています。由紀の父親もアルコール依存症で、由紀の母親はそんな夫に尽くしてきました。由紀はその母親の悪いお手本(モデル)を見て育ちました。そして、由紀は、父親と同じような依存的な安行に惚れてしまい、母親と同じように共依存的に接するのです。このように、アルコール依存症を助長する家族などの周りをイネーブラー(enabler)と呼びます。アルコール依存症を「enable(可能にする)+er(人)」という意味です。
そもそもアルコール依存症でい続けるには、依存する体だけでなく、依存するためのお金や依存する相手が必要です。つまり、安行の望ましくない行動パターンを下支えしてしまっているのは、母親や由紀です。逆に言えば、健康とお金と人間関係が続く限り、依存症はなかなか回復しないということです。
由紀と安行の子どもである息子と娘は、由紀と安行が夜中に激しい夫婦喧嘩をしていても、寝たふりをして静かにしています。由紀は「大丈夫。あの子(娘)は泣いた顔を人に見せない子です」と胸を張って言っています。娘も息子も、母親の由紀の姿を見て、もの分りが良く我慢をする「良い子」にもなっています。
そして、彼らが思春期になった時、その我慢の反動により依存的に振れるか、またはその我慢の順応により共依存的に振れるか、さらにはその両方を行ったり来たりするかといういずれかのこのような極端で独特の人間関係を築いてしまうのです。まさに依存と共依存の「文化」が脈々と受け継がれようとしている危うさが読み取れます(世代間連鎖)。