連載コラムシネマセラピー
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
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血のつながりへのこだわりが強まるのは、子どもの数が少なくなった(少子化)、血のつながりがはっきりするようになった(DNA鑑定)、血のつながりのある子を生めなかった人が生めるようになった(生殖医療)という3つの現代の社会的な原因があることが分かりました。
そんな現代の社会構造の中、私たちはどうすればいいのでしょうか? 3つのワンシーンを通して、生殖の物語として考えてみましょう。
①いろんな生殖の物語を知る
慶多と琉晴の取り違えが起こったのは、実は当時勤務していた看護師が、子連れの男性との再婚によって育ての母親になったストレスの腹いせによるものでした。その事実が、その看護師の告白によって明らかになります。その後に、良多はその看護師の家に押しかけますが、小学生くらいの彼女の育ての息子が出てきて、良多の前でにらみながら立ちはだかります。良多から「おまえは関係ないだろ」と言われても、ひるまず「関係ある。ぼくのお母さんだもん」と言い返します。そして、彼のその気迫を目の当たりにして、良多は打ちひしがれるのでした。
1つ目、いろんな生殖の物語を知ることです。それまでの良多は、実績、学歴、血のつながりなどの形あるものしか信じておらず、小学校のお受験の面接の模範解答のような「普通の家族」「正しい家族」「ちゃんとした家族」にとらわれていました。そして、血のつながりがあるという理由でだけで、琉晴を無理やり懐かせようとしていました。しかし、血のつながらない親子の強い絆を見せ付けられ、彼の価値観の根本が揺らいだのでした。
私たちも、良多のような頭でっかちの思考回路に陥ることがあるかもしれません。しかし、いろんな生殖の物語を知った時、親子の絆は、血のつながりだけで存在するものではなく、情によって育むものであることに気づかされます。
②自分の生殖の物語を知る
慶多と琉晴の交換から数週間が経ち、良多は、カメラのモニターでメモリーに残っている写真をたまたま見ていた時、良多の書類を読んでいる背中や寝顔をいくつもこっそりと慶多に撮られていたことに気づきます。そのカメラには、「慶多の記憶の中のパパ」が映っていたのでした。それを見て、良多は涙が溢れ、いても立ってもいられなくなるのでした。
2つ目は、自分の生殖の物語を知ることです。愛着の心理でも触れましたが、子どもが親からしばらく離れていると「禁断症状」が出るのと同じように、実は親も長年いっしょにいた子どもからしばらく離れていると、血がつながっていてもいなくても「禁断症状」が出るのです。親プリンティングと同じように、「子プリンティング」ができてしまうのでしょう。つまり、情も依存行動(嗜癖)であると言えます。この詳細については、以下の関連記事をご覧ください。
私たちも、子どもの思いをきっかけに、自分の情に気づかされることがあるでしょう。愛着と情が相互作用していると考えれば、自分の生殖の物語は、自分だけでつくるものではなく、子どもといっしょになってつくりあげるものであることに気づかされます。
③自分の生殖の物語を書き換える
良多とみどりは、慶多を迎えに行くために、琉晴を連れて、前橋の斎木家に急に訪ねます。逃げ出す慶多から「パパなんか、パパじゃない」と怒って言われながらも、追いかける良多は「でもな、6年間はパパだったんだよ。出来損ないだけど、パパだったんだよ」「もうミッションなんか終わりだ」と言い、優しく抱きしめます。
3つ目は、自分の生殖の物語を書き換えることです。良多にとって、新生児取り違え事件に巻き込まれたことは、不運な生殖の物語でした。しかし、良多は、その後に慶多と一時期離ればなれになることで、慶多への深い情を再確認します。そこには、血のつながりがないものの、深い情で結ばれた親子の絆が確かにあります。慶多との出会いに意味を見いだすという新たな生殖の物語が始まっています。
また、慶多へのミッションは、良多自身へのミッションでもあったのです。それは、慶多を能力があるから愛するのではなく、ありのままに愛するようになる良多の自己成長です。逆に、この事件がなければ、良多は、彼の父親と同じように、毒親のままだったでしょう。
また、愛着の臨界期の観点から、琉晴が良多やみどりに懐くことは簡単ではないとご説明しました。その一方で、良多やみどりが琉晴に情を深めることはできるでしょう。実際に、みどりは、琉晴といっしょに過ごすうちに「琉晴がかわいくなってきた」と良多に言います。つまり、親にとっての「子プリンティング」は、何歳までという臨界期ではなく、あくまでいつからでも可能なのです。だからこそ、養子縁組や里親制度により育ての親になれるのです。つまり、血のつながりのある琉晴との再会に意味を見いだすという新たな生殖の物語も始まっています。
ラストシーンで、慶多と琉晴を中心に、野々宮家と斎木家のみんなが、笑い合って、1つの家の中に入っていく様子は、感動的です。慶多と琉晴のために、生活スタイル(価値観)の違う2つの家族が1つになろうとする象徴的なシーンです。かつて、良多の父親が「早く交換して、二度と相手の家族とは会わないことだな」と言うセリフとは、真逆の展開です。
私たちは、ラストシーンから良多のその後に思いを馳せるでしょう。これから、野々宮家と斎木家はもっと交流が増えるでしょう。お互いの子育てについて、もっと意見を言い合うでしょう。東京と前橋は離れているので、近いうちに、良多は前橋に引っ越すでしょう。前橋のみどりの広い実家に同居するなどの考えも頭を巡らせているでしょう。
生殖の物語は、血のつながりにこだわりつつも、血のつながりだけで存在するものではなく、血がつながっていない子どもともいっしょに、そして周りの大人ともいっしょに豊かにしていくものであり、書き換えていくものであることに気づかされます。
そもそも、子連れ再婚などの家族では、血のつながりよりもいっしょにいることに重きが置かれています。そんな新しくつくる家族は、ステップ(階段)を上がることになぞらえて、ステップファミリーと呼ばれています。良多と琉晴を中心とする家族は、より広い意味でステップファミリーと言えるでしょう。それは、同時に、原始の時代から近代まで広く行われていた、大家族で子育てをするという共同育児(アロペアレンティング)を彷彿とさせます。
この映画は、限られた上映時間の中で、父親の視点に焦点を絞っています。逆に、母親の視点、子どもの視点での描写が少ないため、リアリティの点から、もの足りなさを感じることがあるかもしれません。
ただ、この映画の良多の視点を通して、遺伝的なつながりを超えた、運命的なつながりを感じることが、私たちのそれぞれの生殖の物語を考えることであり、これからの親子の絆を考えることであると言えます。そして、それこそが、「そして父になる」物語であり、「そして母になる」物語でもあり、「そして家族になる」物語でもあると言えるのではないでしょうか?
1)養子縁組の社会学、野辺陽子、新曜社、2018
2)進化と人間行動:長谷川寿一など、東京大学出版会、2000
3)ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年:奥野修司、文春文庫、2002
4)脳に刻まれたモラルの起源:金井良太、岩波書店、2013