連載コラムシネマセラピー
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
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ムンクの日記によると、「2人の友人と歩道を歩いている時、やむことのない自然をつんざくような叫びを聞いた」とあります。実際の絵の状況は、実はムンクは叫んでいるわけではなく、叫びに恐れおののき、耳を塞いで、かろうじて突っ立っているだけなのでした。
3つ目は、周りの誰かまたは世界が叫んでいると意味付ける、つまり妄想性です。これを統合失調症の症状として見ると、自分の心の中(内的世界)の「叫び」を、現実世界の誰か(外的体験)の「叫び」として聞いたとしています(幻聴)。さらに、何となく不気味な気分(妄想気分)や、自分が自分ではなくなり自分の存在が危うく感じる体験(自我障害)から、世界が終わってしまうと感じてしまいます(世界没落体験)。もはや2人の友人も、黒服で得体の知れない存在に見えてしまい、監視しているか、尾行しているかとも思ってしまいます(被害妄想)。
それでは、なぜ意味付けるのでしょうか? ここから脳科学的に考えてみましょう。意味付けとは、それぞれの体験について、ある程度抽象的で大まかな言葉に置き換えること、つまり概念化です。これは、言葉の聞き取る能力を司る感覚性言語中枢(ウェルニケ野)と言葉を話す能力を司る運動性言語中枢(ブローカー野)が司っています。そうすることで、過去の体験と関連付けをして、記憶に残しやすくなります。
ここで、先ほどの過敏性よって意味付けはどうなるでしょうか? 意味付けがされ過ぎてしまいます。例えば、テーブルに携帯電話が置いてあったとしましょう。たまたま置いてあっただけなのに、「なぜあるの?」とその意味を考えるようになります。そして、意味が分からないことに違和感を覚えるようになり、何気ないことを何気なく思えなくなり、当たり前のことを当たり前に思えなくなります(自明性の喪失)。つまり、意味付けは、され過ぎると、逆に失われてしまうということです。全ての出来事に意味を求めてしまい、クタクタになってしまいます。その刺激を避けるために、統合失調症の人は、早い段階でひきこもりになることがよくあります。また、間違った意味を見いだしてしまうと、論理の飛躍が起こります。それが先ほどの世界没落体験や被害妄想です。さらに、意味付けが極端になり自覚がなくなれば、意味のつながりが失われて、話すことにまとまりがなくなります(滅裂思考)。
また、侵入性に意味付けをするとどうなるでしょうか? 侵入する対象として言語化します。それが、統合失調症の人がよく言う「得体の知れない巨大なもの」です。さらに、この表現は時代や文化によって変わります。例えば、日本なら、現代は「悪の秘密結社」「ヤクザ・暴力団」が多いですが、昔は「狐憑き」などが多かったでしょう。欧米なら、現代は「テロ集団」、昔なら「悪魔」が多いでしょう。
そもそも、なぜ意味付けは「ある」のでしょうか? さらに進化精神医学的に考えてみましょう。人類は、約10~20万年前に、喉の構造を進化させて、複雑な発声ができるようになり、言葉を話すようになりました。そして、人だけでなく、自然環境や様々な自然現象を名付けることによって、世界を区切り、関係付け、説明しようとしました。こうして、シンボルを使って抽象的思考をする概念化の心理が進化したと考えられます。概念化によって、道具、建築、美術、音楽、文学、宗教、政治などの文化が爆発的に発展していきました(文化のビッグバン)。これが、創造性です。こうして、人は、その文化を、神話や言い伝え、民謡などの様々な方法で子孫に伝えることができるようになりました。人は、約5000年前に文字を発明して、ようやく原因と結果をつなぐ論理的思考(システム化脳)の体系が可能になりました。それが、科学であり、合理性です。ということは、そもそも創造性には合理性があるわけではないと言えるでしょう。もっと言えば、創造性と妄想は、同じ概念化の心理として合理性がない点では、コインの表と裏ということです。まさに、ムンクの絵もその1つです。
つまり、意味付けという概念化は、人間の生存、さらには文化の継承に必要だから「ある」のでしょう。