連載コラムシネマセラピー
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
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ムンクの日記によると、「血のような炎を吐く舌のような空が青黒いフィヨルドと町並みに覆い被さるようであった」とあります。実際の絵の構成は、輪郭が重なり合い大きくうねるような筆遣いで、中心に置かれる本人は周りに飲み込まれて溶けてしまいそうです。
2つ目の特徴は、自分と周りの世界の境目がなくなると感じる、つまり侵入性です。これを統合失調症の症状として見ると、自分と他人の境目(自我境界)がはっきりしなくなり、自分は自分であるという実感がなくなることです(自我障害)。体がスケスケなのと同じように、心もスケスケに感じてしまい、自分の考えが漏れていると思うようになります(自我漏洩体験)。周りの人の視線が自分に迫ってくるようにもなります(被注察感)。さらには、何か得体の知れない誰かに自分が操られている感覚に陥ります(作為体験)。
それでは、なぜ境目がなくなるのでしょうか? ここから脳科学的に考えてみましょう。境目とは自分と周り(他人)を区別することで、前頭葉(前部傍帯状皮質)が司っています。これは、周りを認知している自分を認知する、つまり認知していることを認知することでもあります(メタ認知)。
ここで、先ほどの過敏性によって境目はどうなるでしょうか? 周りの世界を認知する感度が上がり過ぎてしまい、自分の想像(内的体験)への認知も周りの現実(外的体験)への認知と誤認知(偽陽性)してしまい、自分への認知と周りへの認知を区別する精度が落ちてしまいます。つまり、周りの世界を過剰に認識してしまうと、逆に正確には認識できなくなってしまい、境目がはっきりなくなってしまうということです。これは、検査の検出の感度と分類の精度(特異度)の相関関係です。例えるなら、教科書でテストに出そうな箇所に赤線を引く時、全てが出そうに思えて、全てに赤線を引いてしまうことです。すると、本当に出そうな箇所とそうでない箇所の区別ができなくなってしまいます。
境目がなくなることで、想像も現実の体験の一部として認識してしまいます。そこから、自分が世界に侵入されてしまう感覚に陥ります。例えば、自分の考えたことが声になって聞こえます(考想化声)。やがてそれは他人の声として聞こえてしまいます(幻聴)。そう考えると、先ほどの誰かに見られているという感覚(被注察感)や、誰かに操られているという感覚(作為体験)のその誰かとは、実は他でもない自分自身であるということが理解できるでしょう。
そもそも、なぜ境目は「ある」のでしょうか? さらに進化精神医学的に考えてみましょう。人類は、約700万年前にアフリカの森に誕生し、約300~400万年前に草原(サバンナ)に出てから、助け合い(協力)と競い合い(競争)の狭間で、相手の心を読む、つまり相手の視点に立つ心理を進化させてきました(心の理論)。この心理から、自分自身を離れて自分自身を見る視点を持つようになり、自分と周りの世界を区別できるようになりました。さらに、この視点を手に入れたことで、周りの世界をより良く知りたいという好奇心の心理(新奇希求性)も進化したと考えられます。だからこそ、私たちは、新しかったり珍しかったりする状況(新奇場面)でも過敏になるのでしょう。
つまり、境目という心の理論、さらには好奇心という新奇希求性は、人間の生存に必要だから「ある」のでしょう。逆に言えば、人間以外のほとんどの動物は、境目が最初からないわけなので、自分と周りはもともと一体であり、境目がなくなる危うさをそもそも感じることはないと言えるでしょう。