連載コラムシネマセラピー

私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーションメンタルヘルスセクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。

【3ページ目】2022年10月号 映画「心のカルテ」【後編】なんでやせすぎてるって分からないの?【エピジェネティックス】

やせの謎の答えは?

先ほどの社会性メモリー(エピジェネティックな変化)による「やせアイデンティティ」の確立が、神経性やせ症に病識がない原因であると考えることができます。つまり、エレンの根っこの心理を代弁すれば「このまま(少食のまま)でいい」です。「やせたい」ではないです。「やせたい」という気持ちは現代のダイエット文化の影響による後づけであると考えることができます。そうすれば、すでにやせすぎているのにあまり食べないというやせ願望(肥満恐怖)や、やせすぎていてもそう思わないボディイメージの障害などの症状があるのも納得が行きます。

また、男性は妊娠能力がなく、適応的生殖抑制を働かせる必要がないため、そもそも神経性やせ症にはなりにくいです。これが、神経性やせ症の顕著な男女差の原因であると考えられます。一方で、女性は児童期までに妊娠能力がなく、適応的生殖抑制を働かせる必要がありません。これが、神経性やせ症の好発年齢が児童期以前ではなく思春期に多い原因であると考えられます。また、成人期以降ではアイデンティティの確立はすでに終わっています。これが、神経性やせ症の好発年齢が成人期以降ではなく思春期に多い原因であると考えられます。

さらに、エレンは子どもをつくれなくても、妹の子どものサポート役になることができます。そして、その子が思春期になった時に、過激なダイエットをしてしまえば、神経性やせ症になる可能性があるでしょう。これが、神経性やせ症を発症させる遺伝子が残っている(遺伝率が高い)原因です。つまり、直接的には子孫(遺伝子)を残せませんが、血縁者をサポートすることで間接的に「やせ遺伝子」を残すことになるというわけです。

真の治療とは?

神経性やせ症の正体は、過激なダイエットや食べ吐きなどによる栄養不足への反応のしやすさ(代謝メモリー)、栄養不足のストレスへの過敏さ(愛着メモリー)、栄養不足(やせ)へのアイデンティティ(社会性メモリー)という3つのエピジェネティックな変化であることが分かりました。

つまり、神経性やせ症は、最終的にはアイデンティティという生き方の問題であり、説教や説得をしてもあまり効果がないことが分かります。もっと言えば、食事制限は、宗教的な理由から輸血を拒否することと同じともとらえられます。早死にするリスクがあっても本人がその生き方を望むなら、私たちは神経性やせ症を病気として特別視せず、生き方の違いとしてとらえ直し、静かに見守ることが必要です。逆に言えば、本人に同意のない経鼻栄養(強制栄養)は、輸血を拒否する人に輸血をするのと同じ人権侵害に発展するおそれがあります。

また、過激なダイエットも、生き方の問題としてやめられない点で、食べ吐きと同じ行動依存(嗜癖)であるととらえることができます。それでは、この神経性やせ症の正体を踏まえたうえで、ここからその真の治療をとらえ直します。エレンが生活するグループホームでの取り組みを通して、主に3つあげてみましょう。

①病識を促す-集団療法

グループホームでは、メンバーたちが集まって話し合うミーティングが1日に朝と夕に1回ずつあります。心理カウンセラーが「夕方は反省会。今日の悪かったことと良かったことをテーマにします」と始めています。日常生活を通して、お互いの気持ちを聞き合い、励まし合ったり、慰め合ったりしています。

1つ目は、病識を促すための集団療法です。これは、本人に自分と似た人を実際に見てもらうことで、「やせアイデンティティ」を見つめ直してもらう効果があります。また、仲間といっしょにいるという集団心理によって、同調の効果もあります。アルコール依存症と同じく、自助グループとしての取り組みです。

ただし、同調によって、やせとして生きるアイデンティティが逆に強化される場合もあるため、カウンセラーのような方向付けする役割が必要です。

②治療意欲を高める-行動療法

グループホームでは、目標の体重に戻るための生活上のさまざまなルールがあり、それを守るとポイントが加算され、破ると減点されます。ポイントが貯まると、外出などの自由が増えていきます。

2つ目は、治療意欲を高めるための行動療法です。これは、行動を変えていくことで、生き方(アイデンティティ)を変えていく効果があります。アルコール依存症と同じく、飲酒を誘発する行動をしないようにする取り組みです。

ただし、この取り組みも、本人が同意していないと、人権侵害になるリスクがあるため、日々のコミュニケーションが必要です。

③家族が距離感を知る-家族療法

実は、エレンの家族関係は複雑でした。そんな彼女のために、主治医のベッカム先生は「誰も責めない」と言い、家族を集めて、語らせます。しかし、言い争いになって、収集がつかなくなるのでした。

3つ目は、家族が本人との距離感を知るための家族療法です。これは、家族が本人や誰かを責めるのではなく、本人をほど良くサポートする効果があります。アルコール依存症と同じく、家族が関わり方を学ぶ取り組みです。

なお、ラストの方で、実母がエレンを赤ちゃんに見立てて擬似授乳するシーンがあります。うまく育まれなかった愛着形成のやり直しをすることで、遠い記憶の上書きの象徴として描かれています。しかし、愛着メモリー(エピジェネティックな変化)は基本的に不可逆であることから、模擬授乳の実際の治療的な効果は不明です。

予防は?

映画のストーリーのその後に、もしもエレンが回復して、ルークと結ばれて娘を生んだとしたら、どうでしょうか?もちろん、幸せな家庭になってもらいたいです。ただし、その娘はもちろん「やせ遺伝子」を色濃く引き継ぎます。なお、エレンとルークのやせのエピジェネティックな変化も、娘に引き継がれるかどうかについては、現時点でまだはっきりしたことが分かっていません。植物や動物などにおいて、いくつかの特定のエピジェネティックな変化が次の世代に引き継がれていることがすでに確認されています。人間においても、いくつか可能性の報告はあるものの、遺伝子レベルで確認されているわけではありません。

この現象はあったとしても、その影響度は植物や動物と比べて小さいものであることが推定されます。その理由は、人間は、植物や他の動物と違い、文化も引き継いでいるからです。人間においてのエピジェネティックな変化の報告はどれも、現時点で、文化について触れられていませんでした。人間は、遺伝と並んで、文化(家庭外環境)の影響が大きいことから、エピジェネティックな変化が次の世代に引き継がれる必要がないとも言えます。この点で、「(エピジェネティックな変化によって)遺伝子はあとから変わる」と言いきることには慎重になった方が良いと思われます。

以上より、神経性やせ症への予防のヒントが見いだせます。それは、過激なダイエットをすることは、エピジェネティックな変化を招き、食べ吐きと同じようにやめられなくなり(依存的になり)、危険であるという事実を、もっと世の中に啓発して文化的に広めていくことです。そうすることで、神経性やせ症をはじめとする摂食障害の予防を徹底することができます。そんな文化の社会になった時、エレンとルークから生まれた娘は、神経性やせ症にならないことが期待できるのではないでしょうか?

●参考文献
*3 標準精神医学(第8版)P402:医学書院、2021
*4 進化医学P184:羊土社、2013
*5 もっとよくわかる!エピジェネティックスP162:羊土社、2020
*6 摂食障害の進化心理学的理解の可能性P47:日本生物学的精神医学会誌Vol. 23 No. 1、2012
*7 「摂食障害の最近の動向」P148:心身医学、日本心身医学会、2014
*8 人間と動物の病気を一緒にみるP295:バーバラ・N・ホロウィッツ、インターシフト、2014
*9 進化と人間行動P167:長谷川寿一ほか、東京大学出版会、2022