連載コラムシネマセラピー

私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーションメンタルヘルスセクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。

【2ページ目】2024年2月号 映画「かがみの孤城」【その4】学校がなかなか変わらないわけは?だから私たちにできることは?-「反応性自我障害」

それでもなんで学校を変えられないの?

これからの学校のあり方とは、社会と同じように、やはり民主国家型であることが分かりました。そして、これは、実際に海外の多くの国ですでに実践されています。また、日本の学校が独裁国家型のままである問題点は、海外の教育研究者から散々指摘されてきました。にもかかわらず、なぜ日本の学校はなかなか変わることができないのでしょうか?

それは、やはり社会を自ら変えていくこと、そして選び選ばれるという社会的な自我(アイデンティティ) が求められること自体に抵抗を感じる、自我の弱い人が日本には多いからでしょう。例えば、何が「普通」か、何が「変」かを気にして、周りと違うことをすることに不安を感じる人です。そして、世間(主流秩序)が望ましいとされることに重きを置き、体裁を気にする人です。また、文科省のような権威に対して表立って意見するのを嫌がる人です。その割に、陰では不平不満を言い続ける人です。

その1と2でご説明した通り、このメンタリティは、社会的な自我が弱いままなのに、社会構造の変化によって個人的な自我だけが強まってしまっている状態です。このギャップこそが、不登校だけでなく、新型うつ(職場不適応)、ひきこもり、少子化(非婚)、そして日本的バッシングなども含めた、さまざまな日本の社会問題に共通する根っこの病理であると考えられます。

これらをまとめて、「反応性自我障害」と名付けることができます。ちょうど、反応性愛着障害が虐待などの養育環境によって反応的に愛着が育まれないのと同じように、反応性自我障害は「工場型一斉授業」という学校環境によって反応的に自我が育まれない状態です。パーソナリティ(性格)の特性としてとらえると、回避性パーソナリティが最も近いでしょう。

実際の研究では、不登校がその後の人生に与える影響として、学歴が低くなることを差し引いても、仕事、生活レベル、結婚の状況が思わしくなくなっているという結果が出ています(*5)。これは、たとえ不登校のあとに本来の学歴を達成したとしても、大人になって社会的な自我(アイデンティティ)が十分に育まれていないことを示唆します。この自我は、不安や受け身の気質からもともと弱い日本人が多いのに加え、「工場型一斉授業」によってさらに押し殺され、不登校になることで育むチャンスを完全に失うというわけです。

現在、この「反応性自我障害」によって、学校に行かない人、働かない人、結婚しない人、子どもをつくらない人が増え続けており、持続可能な社会であり続けることが難しくなってきています。もちろん、自分なりの考え(自我)があって、あえてそうしている人はもともと一定数います。それは、生き方の自由であり、多様性です。問題なのは、そうではない「反応性自我障害」に陥っている人が増えてきていることです。「反応性自我障害」は、日本文化と深く結び付いている点では、もはや日本の国民病(文化結合症候群)とも言えます。実際に、”futoko”(不登校)、”hikikomori”(ひきこもり)という英単語がすでにあるくらいです。この流れで、いずれ“hikon”(非婚)という英単語も生まれるでしょう。

なお、文化結合症候群の詳細については、以下の記事をご覧ください。


>>【文化結合症候群】

文化進化の視点に立てば

もともと日本では、独裁国家型である封建社会の価値観(文化)と「反応性自我障害」を生じさせる不安や受け身の気質(遺伝子)は、お互いに結びつきを強めてきました(共進化)。しかし、その1でもご説明した通り、時代は変わりました。

文化進化の視点に立てば、遺伝子と同じように、文化も淘汰されます。遺伝子進化が何万世代も繰り返してちょっとずつ変化するのに対して、文化進化は技術革新などによって数世代の間でも大きく変化します。それに遺伝子進化が追いつかないから、その国は繁栄するだけでなく衰退する(淘汰される)こともあるわけです。これは、過去の歴史が証明しています。例えば、かつての帝国主義や資源依存の国などです。そして、封建社会の価値観が残る国(文化)も当てはまるでしょう。

ただし、遺伝子進化と違って文化進化は、改革によって国自体の淘汰を免れることができます。この点で、日本が静かに衰退していくか盛り返すかは、「反応性自我障害」ではない、つまり社会的な自我のある残りの私たちが何を選択していくかにかかっています。

なお、文化進化の詳細については、以下の記事をご覧ください。


>>【文化進化】

「かがみの孤城」とは?

映画の後半で、城に通い続けて自我が芽生えたこころは、家の前で見かけた萌ちゃんに駆け寄ることができます。これまでの彼女にできなかった、さりげなくも大きな第一歩です。こころは、萌ちゃんから「ああいう子たち(いじめ女子グループ)ってどこにでもいるし、今度の学校(次の転校先)でもいるかもしれないけど。私今度こそ嫌なものは嫌って言う。だからこころちゃんも」「何かされてる子がいたら、今度こそ助けたいと思う」と言われ、「うん」と力強く頷きます。城だけでなく、現実の世界でも、こころが友達とお互いに影響し合い、自我が大きく成長していく感動のシーンです。

タイトルの「孤城」とは、孤立無援のこころたちの城であると同時に、孤高にも自分らしく生きていくこころたち自身であるという意味が見いだせそうです。このことからも、この映画のテーマは、まさに誰かとかかわり合うことで自我を育むことでしょう。

同じように、不登校への学校改革の第一歩を知った私たちの「孤城」とは、一人ひとりが社会的な自我を持って意見を発信し合い、学校を、そして社会を変えていくムーブメントを巻き起こすことではないでしょうか?

参考文献

*5 「不登校がその後の生活に与える影響」:井出草平、大阪大学