【2ページ目】2011年 映画「私は『うつ依存症』の女」情緒不安定性パーソナリティ障害
スプリッティング(分裂)―生きるか死ぬか

リジーは親友にレーフのことを自慢します。「真の愛とは生きるか死ぬか壮絶なものよ」「あなたのは体だけでしょ」 と。その言葉に親友は怒りを通り越して呆れてしまいます。さらには、「最愛の人をあまりにも愛しているために、その人を殺してその灰を食べるということに共感できる」「それが相手を完全に所有する唯一の方法だから」と心の中で悟ります。
リジーのものごとのとらえ方がとても極端で、偏って、歪んでいることが分かります。認知の歪みです。これは、空虚感や見捨てられ不安により、彼女は常に全か無か(all or nothing)、二者択一の究極の選択肢しか持ち合わせていないからでした。白黒思考、二分思考とも言います。そして、両極端の感情である心地良さと不快さのバランスがうまく保てない心理状態に陥っています。これはスプリッティング(分裂)と呼ばれます。
このスプリッティングにより、「良い人か悪い人か 」「敵か味方か」という発想に行き着き、その気持ちが些細なことでコロコロと移ろいやすいのです。これが、理想化とこき下ろし(幻滅)です。リジーのセラピストに対するとらえ方が分かりやすいのです。最初は「この人に任せてもだめだ」と幻滅して、その後、レーフとうまく行っている時には理想化し頼りにしており、レーフと別れたら「期待したのに辛いだけじゃないか」と怒鳴り込んで幻滅しています。
セラピストだけでなく、母親、恋人、親友などとの対人距離も、ちょっとしたことで好きになりべったりとくっ付き、その後にちょっとしたことで嫌いになり暴言を吐き離れてしまい、とても不安定です。さらには、ものごとへの取り組みも不安定で、幸せの絶頂でこれが永遠のものではないと悟ることで不安に襲われ、取り乱して目標が実現する直前で全てを台無しにする特徴もあります。
自傷行為―自らを傷付ける行い

リジーは、薬を飲み続けるかどうかセラピストと相談していた時、セラピストに言われたある一言で、とっさにその場を立ち去り、トイレに行き、グラスを割り、リストカットをしようとします。その一言とは、「薬を飲み続けることを私は勧めるけど、決めるのはあなたよ」です。一見、何でもないような一言ですが、リジーの受け止め方は違っていました。この時にリジーは、セラピストを理想化し全てを委ねており、セラピストに決めてもらいたかったのです。ところが、「自分が決めなければならない」「突き放された(見捨てられた)」と極端に受け止めたのです。さらに、リジーはリストカットすることで「死にたいほど辛いという気持ちを分かってほしい「助けてほしい」という無意識のメッセージであり、アピールの心理もあったのです。
時々、リジーはふと幼少期を回想します。実は、リストカットのような自傷行為が始まったのは、リジーがまだ小学生の時でした。カミソリの刃で自分の足を切り付けるようになります。当時より「自分は何てだめなんだ」という自己否定感が高まり、「自分を痛め付けて罰したい」という自罰性が現れていました。逸脱行動の先駆けとも言えます。また、同時に空虚感もくすぶり始め、「その空しさを紛らわしたい」「生きている実感を味わいたい」「新しい自分になりたい という気持ちから、気分をリセットするための憂さ晴らしとして依存的に繰り返すようになります。
このように、自傷行為には、アピール性、自罰性、依存性の3つの側面があります。傷付きやすい自分を自ら傷付け、そして逸脱行動により周りの人をも傷付けていってしまうのです。
情緒不安定性パーソナリティ障害

このように、自己否定感、空虚感から見捨てられ不安などの情緒不安定が煽られ、認知の歪み、スプリッティング、理想化とこき下ろしが現れ、自己破壊的な逸脱行動が繰り返され、その果てに自傷行為により他人を巻き込むようになり、もはやその人の性格や生き様などのパーソナリティ(人格)として根付いてしまっているので、情緒不安定性パーソナリティ障害の診断と診断されます。境界性(ボーダー)パーソナリティ障害とも呼ばれます。そして、対人トラブルを引き起こし、二次的にうつの状態に陥っていると言えます。特に、人間関係の幅や深みが広がり複雑になる思春期に症状が目立って現れるようになります。
現代の情緒不安定性パーソナリティ障害の特徴的な行動パターンは、用意周到で本気の自殺行為よりも、衝動的で助かる見込みのある自傷行為が圧倒的です。例えば、動脈に達しないリストカット(いわゆる「ためらい傷」)、致死量に達しない過量服薬、3階までの低層からの飛び降りなどです。そもそもギリギリ助かることが本人によって無意識にも想定されています。さらに、アピール性がエスカレートした場合は、別れを切り出した恋人に対して「別れるなら死ぬよ」という脅し文句に使われることもあります。いわゆるお騒がせな「狂言自殺」です。これは操作性と呼ばれています。