【3ページ目】2011年 映画「私は『うつ依存症』の女」情緒不安定性パーソナリティ障害

父性不在―無責任な父親

父性不在―無責任な父親

それでは、なぜリジーは情緒不安定性パーソナリティ障害になってしまったのでしょうか?その答えに辿り着くためには、幼い頃からのリジーの家庭環境に目を向ける必要があります。

まず、もともと父親は、離婚後に気まぐれに突然現れるのみで、口先では「一番愛している」と調子の良いことを言うだけです。リジーに医療費の支払いをしていない事実を問い詰められた時は、逆切れして、全然連絡をくれなくなったからだと話をすり替え、挙句の果てに支払いは母親の責任だと言い張り、無責任な態度で開き直ります。父性不在です。

母性過剰―支配的な母親

母性過剰―支配的な母親

次に、母親を見てみましょう。入学日の当日、独りで引っ越し荷物を運べると言うリジーを頭ごなしに否定したり、娘が書いた記事の受賞や経歴をあたかも自分の手柄のように吹聴する母親の様子は、私たちに何か嫌悪感を抱かせます。良く言えば、子煩悩で面倒見がいいように見えますが、悪く言えば、娘の考えに耳を傾けず、一方的に自分の考えを押し付けるばかりで、過保護で過干渉です。大学生になり、自活しようとする娘を完全に子ども扱いしています。

また、冒頭のシーンで、母親は、リジーの自室にノックもせずに入ってきて、しかも娘が全裸であるのにも気にも留めず、部屋の中をウロウロ歩き回り、一方的に「カーペットも持っていこう」と言い出しています。一方、リジーも特に恥ずかしがることはありません。この2人の様子にはかなりの違和感があります。まるで、飼い主とペットのような振る舞いにさえ見えてきます。

張り切り過ぎている母親にリジーがうんざりして、「別に作家になるのにハーバードに行かなくても」と漏らすと、母親は過剰に反応して、「何言っての?」「私が今日という日をどんなに待ち望んだことか」「ハーバードに行かなければ誰もあなたのことなんか気にも留めないわよ」と。「誰も」というのは「母親である私は」というニュアンスが暗に込められているのが明らかです。愛情を注ぐことに条件を付けています。

入学後しばらくして、母親は、変わり果てたリジーを見て、苛立ち、甲高く小言を言い続けて、ついには激怒します。「何このありさま!? 「こんなことに付き合っていられないわ」と。そこには、慰め、いたわりなど共感する包容力は一切ないのでした。逆に、リジーが音信不通になったことで母親は心配していましたが、その後、娘が元気で恋人とうまく行っていると分かると素直に喜べません。娘が自分から離れていってしまうような感覚にとらわれて、泣き崩れています。これは、母性過剰と言えます。

機能不全家族―家族の力が働かない

機能不全家族―家族の力が働かない

リジーは過去を振り返ります。「父がいなくなり全く関わりがない分、母が執拗に関わってきた」と。父親が不在の場合、相対的に母性が過剰になり、そして、必然的に母子の密着が高まります。一人っ子であればなおさらです。さらに、男性より女性の方が共感性が強い分、母親-娘という女性同士の組み合わせが一番です。「母が母自身の男友達についてリジーに相談をしなかったのは父だけだった」という事実は強烈です。つまり、母親は自分の男友達を全てリジーに開けっぴろげにしていたのです。

リジーは心の中で母親の本心を言い当てています。「自分の失敗を娘で償おうとした」と。母親は、リジーの将来に強すぎる期待を寄せる余り、要求水準が高くなっていたのでした。言い換えれば、母親による娘の支配です。過剰な期待は、愛情に条件を付けることで、支配にすり替わっていたのです。娘を一人の「個人」「大人」と見なすことができなくなっていました。「心配なの」「愛しているの」という言葉のもとに、先回りして過干渉を続け、自分の延長の存在ととらえています。娘は、自分の思い通りになる所有物であり、自分の生き直しの存在であり、自分の分身でした。もはや虐待にさえ見えてきます。実は、これこそがまさに落とし穴だったのです。良かれと思い母親が必死にやってきたことが、実は大きく裏目に出てしまっています。

子どもの成長において、「自分は掛け値なく大事にされている」「無条件に愛されている」という実感があれば、自然に自己肯定感や基本的信頼感が芽生えていくものです。ところが、父親は自分を守ってくれないという父性不在、母親は条件付きの愛情しか注がないという母性過剰による愛情の歪みから、自己否定感、不信感、空虚感が煽られていき、後々に情緒不安定などの性格や歪んだ認知の問題、つまりパーソナリティ障害になっていく可能性が高いです。

現代の日本の「お受験ママ」「ステージママ が子どもを追い込んでいく姿はリジーの母親に重なり、危うさを感じます。また、単身赴任の多い日本の父親は、子どもと触れ合う時間が少なく、大事な場面でいない点で、リジーの父親に重なって見えてどきっとします。勉強、スポーツ、芸能における子どもへのスパルタ式のかかわり方は、無条件の愛情という家族の固い絆が前提にあってこそ成り立つのです。