【5ページ目】2011年 映画「私は『うつ依存症』の女」情緒不安定性パーソナリティ障害
認知行動療法―ものごとのとらえ方の練習

リジーは「誕生日会は私のためではなく、母親が祖母から褒めてもらうためにやっていただけなんだ」とセラピストに答えます。確かにそういう理由があったとしても、精神的に健康的な人なら、「もちろん自分のためにもやってくれた」「家族が集まるきっかけとしても大切だった」という様々な理由も思い浮かぶはずです。ところが、リジーは思い込んだらその1つの極端で歪んだ認知に飛び付いてしまうのでした。セラピストは、決め付けることは一切せず、共感しながら誘導的な質問をし続けて、その認知の歪みを気付かせ、解きほぐしていきます。ものごとには様々な認知があり、バランス良くその認知を再構築していくトレーニングをします。これが認知行動療法です。そこから、ものごとにはグレーゾーンがあり、例えば相手を安易に信じるわけでもなく、無暗に疑うわけでもなく、二者択一ではないバランスをとる思考のトレーニングを繰り返しやっていきます。
認知行動療法は、ある意味、ピアノのレッスンのような習い事であり、理性的に頭で理解すると同時に、様々な認知パターンを感覚的に刷り込んでいく作業が必要でもあり、労力を伴います。例えば、同じように誰かのために仕事をしたとしても、「いいように使われた」と思うか、「お仕えすることができた」と思うかは認知の大きな違いです。チャリティ精神のように、人の幸せを自分の幸せと感じることができるか、または「人の不幸は蜜の味」ということわざが示すように、人の不幸を自分の幸せと感じるかは、個人差があり、これが認知の違いでもあります。
リジーは最終的に自叙伝を書き上げ、しかも映画化され、今回私たちがそのDVDを見ているわけですが、実は、自叙伝、日記など自分のことを書くという行為は自己表現であり、自分自身を客観的に見つめ直す作業です。客観的な視点を持つことで、冷静になり、様々な認知をとらえ直す格好のチャンスになりえます。まさに自分のことを書く作業は「自己認知行動療法」と言えます。
家族療法―家族内のシステムへの働きかけ

母親が強盗に遭い、大けがを負い、自宅で介護が必要になったことで、リジーの精神状態は一時的に落ち着いてしまいます。その理由は、母親が身体的にも精神的にもリジーに干渉できなくて、心理的な距離ができたからでした。
そして、母親はついに気付き、リジーに告げます。「あなたは私の全て」「それがあなたを苦しめたのね」「私のために何かになる必要はないわ」「私のためにいい子になることもない」と。リジーは「そう、私には負担だった」と答えます。お互いが問題点を確認した瞬間です。もともと母親自身、心は満たされていませんでした。その満たされない心を娘に目をかけることで満たそうとしていたことを悟ったのでした。そして、母親が変わったことで、リジーも自分が納得する自分らしい生き方に目覚めようとしています。
親は、仕事や趣味などを通して子育て以外の生きがいも見つけて、子育てだけを生きがいとしないようにすること、そして、その仕事、趣味を通して自分の子ども以外との人間関係を深めて、子どもだけとの人間関係、つまりは密着しないことを心掛けることです。そして、同時に「どんなことがあってもお前を守る」「そのままのお前を愛している」といいう無条件の愛情を子どもに注ぐことが大切です。
ストーリーの中では、セラピストはあまり家族へ働きかけているようには描かれていませんが、実際はリジーが小学生の段階で特に母親に早期介入する必要がありました。情緒不安定になってしまった最大の原因が、家族内のシステムの問題であったわけですので、本来はセラピストが家族を呼んでいっしょに面接をして、家族の関係性を改善していくことが望ましいです。これが家族療法です。
また、場合によっては、直接その家に第三者を定期的に送り込むことも重要です。それは、祖父母、叔父叔母、親戚などの血縁関係から、隣人、担任教師、家庭教師、医療スタッフなどの非血縁者まで様々です。最近は、メンタルフレンドというカウンセラー的家庭教師がいます。家庭に第三者の目があるというシステムが、親や子に家庭環境を客観視させることにつながるのです。