連載コラムシネマセラピー
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
小学校の英語教育の改善点は、授業時間数を増やす、授業開始学年と進度をその生徒に合わせる、これらの選択肢を生徒と親に選ばせることであることが分かりました。これは、まさに海外で行われている当たり前の外国語教育です。逆に言えば、授業時間数、授業開始学年、進度を学校側(文部科学省)が一方的に決めて選択権を与えないのは、日本ならではのモノカルチュラルなやり方であることに気づかされます。これを冒頭で「和製英語教育」と名付けました。
前回(2023年10月)にも触れましたが、日本人がなかなかバイリンガルになれない根本的な原因は、モノカルチュラルにとらわれているからです。つまり、日本人が本当にバイリンガルになるためには、まずモノカルチュラルから抜け出すことであると言えます。例えばそれは、同じことが前提で周りと同じことをすることに居心地の良さを感じるだけでなく、違うことが前提として周りと違うことをすることに好奇心を持つことです。
この第一歩が、異年齢で集まる、レベル分けされたクラスを自ら選ぶことです。英語が周りよりも上達すればそれだけクラスがレベルアップ(飛び級)し、逆に上達しないならレベルキープ(留年)することです。もちろん、習いごとではそれが当たり前です。それを主要科目として学校の英語の授業でやることに意味があるのです。これが、週3~5あれば、同じ年齢で同じクラスメートとは違った心理的な相互作用が起きるでしょう。例えばそれは、必ずしも周りといっしょに同じことをやる必要はないという発想です。そんなクラスは、少なくとも「工場型一斉授業」とは呼ばれないでしょう。
バイリンガルになるためにはまずモノカルチュラルから抜け出すことであることが分かりました。それでは、もしも日本人の多くがバイリンガルになったとしたら、どうなるでしょうか? その時はじめて、日本人はバイカルチュラルになっているでしょう。バイカルチュラルとは、単に英語と日本語を翻訳することではなく、日本語とは違う英語のバックボーンとなる文化や価値観も身につけることです。
それは、不安を感じにくく受け身にならないという新しい日本人のメンタリティです。そんな日本人たちは、世界に飛び出すことをためらわず、移民の受け入れにオープンでしょう。これは、人口減少、少子高齢化、経済の停滞などの数々の行き詰まりの突破口になるように思われます。これまで、これらの社会問題に散々政策を打ち出してきてどれもうまく行っていないことを考えると、やはり世界の人たちからかけ離れた日本人の独特のメンタリティの問題に行き着きます。
なお、この日本人の独特のメンタリティの詳細については、以下の記事をご覧ください。
一方で、日本人がバイリンガル(バイカルチュラル)になった時の代償があります。それは、これまでモノカルチュラルにとらわれて必死に守ってきた日本語や日本文化に淘汰圧がかかることです。つまり、言語の淘汰圧であり、文化の淘汰圧です。これは、残念ながら宿命です。私たちの脳の許容限度から、日本語の豊かさを保ちつつ英語も流暢に話すことはなかなか両立しないです。そして、日本的な価値観を守りつつ欧米圏の価値観も身につけることもなかなか両立しないです。両立して器用に切り替えることができるのは、脳の許容限度が大きい一部の人に限られるでしょう。
日本人にバイリンガルが増えれば、自然に難しかったり紛らわしかったりする日本語は使われなくなり、通じなくなっていくでしょう。相手との関係によって語彙表現を複雑に変えていくこともしなくなるでしょう。そして、毎年次々と流行語が生まれることもなくなるでしょう。
ただし、それも長い文化進化の歴史から見れば、日本語そして日本文化の進化のプロセスの1つと見ることもできます。この詳細については、以下の記事をご覧ください。
もはや今の日本は、何をやっても衰退の一途を辿っています。何かを得るということは何かを失うということ、この一得一失(トレードオフ)の現実に向き合うタイミングに来ています。それは韓国のように漢字を廃止したり、中国のように漢字を簡略化したりすることかもしれません。または、「和製英語教育」から脱却することかもしれません。
日本語そして日本文化の豊かさが減っていくという代償に覚悟しつつ、日本人がバイリンガルそしてバイカルチュラルになることで日本が世界標準となり、結果的に日本社会の活力を新しい形で取り戻すことができる、そんな未来に一筋の希望を見いだすことができます。それがこれからの言語政策のビジョンにかかっているように思えます。
それは、もはやモノカルチュラルにとらわれることではありません。また、バイカルチュラルやバイリンガルになるのをすっ飛ばして、いきなりバイリテラル(二言語の読み書きができる人)にさせようとする「和製英語教育」ではありません。
これらを脱却して、まずはバイカルチュラルになろうとすることです。そうして初めてバイリンガルになり、そうして初めて真のバイリテラルになっていくと言えるのではないでしょうか?
*1 英語学習は早いほど良いのかP147、P141:バトラー後藤裕子、岩波新書、2015
*2 日本の教育制度の閉鎖性に衝撃を受けた…「失われた30年」を経ても日本人が内向き志向を続ける根本原因:肥田美佐子、プレジデントオンライン、2023