連載コラムシネマセラピー

私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーションメンタルヘルスセクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。

【2ページ目】2024年2月号 映画「かがみの孤城」【その3】この城が答えだったんだ!-不登校への学校改革「かがみの孤城プロジェクト」

③ほどほどに仲良くなれるという距離感がある―自尊心を育む

城に通える選ばれし7人は、男子4人と女子3人で、中1が3人、中2が2人、中3が2人でした。さらに、それぞれの個性が際立っていました。そして、城には、全員が集まることができる大広間、中庭、屋上とは別に、それぞれの個室が用意され、9時から17時の間なら、だれがいつ来てもいつ帰っても良いルールになっていました。ちなみに、そのルールを破った場合は、「狼に食われる」というとんでもないペナルティもありました。

こころは、「どんな願いを叶えたいのって聞きたかったけど。聞けない。私も聞かれたくなかったし」「学校行ってないのって誰も聞かない。それが心地いい」「なんか和む」と心の中でつぶやいています。だんだん顔を合わせていくうちに仲良くなり、お互いの境遇を気にかけるようにもなります。

やがて、あるメンバーが「お互いライバルだけど、もし見つかったら、誰がどんな願いを叶えたいかって話し合って、くじ引きかジャンケンで決めてもいいかなって」と言い出し、鍵探しの場所を分担し、協力するようになります。また、願いごとが叶うとその時点で城がなくなってしまうことを案内人の女の子から聞かされていたため、別のメンバーが「たとえ鍵を見つけたとしても、それは3月の末まで使わない」と提案して、全員の合意のもとで取り決めをするなど、自分たちでルールをつくっていました。

3つ目の仕組みは、ほどほどに仲良くなれるという距離感があることです。この距離感とは、少人数に絞られた集団で、男女の違い、学年の違い、個性の違いという心理的な距離(多様性)、個室にもいられるという空間的な距離(開放性)、いつでも出入りが自由という時間的な距離(流動性)です。不登校で鍵探しをするという共通点がある一方、これらの距離により、ほどほどの関係を保つことができます。そして、協力関係から信頼が生まれ、自尊心を育みます。

一方で、学校の教室はどうでしょうか? 基本的に同じ学年で同じ制服(見た目)という心理的な近さ(均一性)、保健室しか逃げ場がなく教室に閉じ込められているという空間的な近さ(閉鎖性)、一日中ずっといっしょにいなければならないという時間的な近さ(固定性)があります。この条件は、その近さから、「ほどほど」ではなく「べたべた」の仲良しになろうとする心理(同調)を煽ります。そして、同時に、そうならない人を仲間外れにしようとする心理(排他性)も煽られ、結果的にいじめのリスクを高めます。次に誰がいじめのターゲット(スケープゴート)になるかを探り合ってばかりで、煮詰まって息苦しいです。これは、いっしょにいて協力する目的がはっきりしていないのに、いっしょにいなければならない状況をつくってしまうと、協力するための目的を無意識につくり上げてしまう心のメカニズム(社会脳)によるものです。

例えば、もしもあの城に願いを叶えるという目的の仕組みがなくて、毎日強制的に運ばれる仕組みになっていたら、どうでしょうか? 「天然キャラ」(非定型発達)の男子あたりがまずいじめのターゲットになっていたことは容易に想像できるでしょう。

つまり、いっしょにいるから協力するのではなく、協力するからいっしょにいることができるのです。重要なことは、結果的に居場所になることであり、最初から居場所を目指すことは危ういということです。この点で、学校にしてもフリースクールにしても、ただ居場所であることを強調することは、逆説的にも居場所にならなくなってしまうおそれがあることも分かります。

ちなみに、もしも城に通える生徒が7人に限定されずに、学校のクラスのように大人数だったら、どうでしょうか? けっきょく少人数グループがいくつかできて、その中であぶれた人が「ぼっち」のレッテルを貼られ、やはり通えなくなっていたでしょう。だからこそ、最初から少人数に限定されていたのです。この点でも、「かがみの孤城」の設定はよくできています。

けっきょく、学校は、生徒たちの近すぎる距離により、居場所であるどころか、サバイバルの戦場になっていることが分かります。なお、排他性の心理の詳細については、以下の記事をご覧ください。


>>【排他性の心理】