連載コラムシネマセラピー
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
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1番であることで過剰に価値が付けられているのは、概念化という脳の解釈装置が働くからであることが分かりました。それは、「すごい」ということにすごいと思うことでした。実はこれは、「天才」という概念に重なります。
天才とは、天性の才能、つまり生まれつきのものであり、努力だけでは得られないものとされています。例えば、「天才物理学者」「天才ピアニスト」「天才プレーヤー」「天才クリエイター」「天才子役」「天才棋士」「天才起業家」「お笑いの天才」のように、突出して何かを達成した人です。
しかし、よくよく考えると、このような認知能力にしても身体能力にしても、ある能力について、その達成度のレベルをグラフ化すれば、正規分布になります。より厳密に言えば、正規分布になるようにその能力のレベル分け(判定基準)を意図的に人間がつくっていると言えます。例えば、お笑いでさえ、漫才や大喜利などを競技化して判定基準を形式としてつくることで可能にしています。
その正規分布の最も右端の先細りした部分は、1位であり、1人しかいません。当たり前ですが、ナンバーワンでオンリーワン、いわゆる類いまれです。つまり、天才だから類いまれなのではなく、 類いまれだから天才と呼んでいるだけです。
実際の研究では、世界で上位0.03%に入る「天才」と呼ばれる約1400人のゲノム(全遺伝子配列)の分析を行ったところ、一般人との違いはないとの結果が出ました(*1)。つまり、天才は「天性(遺伝性)の才能」とされていながら、その遺伝子は突き止められなかったのでした。
このことからも、実は「天才はいる」のではなく、私たちが無意識的にも意識的にも「天才にしている」だけであることが分かります。なお、天才とされる人たちは、通常の人と違う飛び抜けた能力を発揮(発達)している点で、自閉スペクトラム症や統合失調症などの非定型発達と関係があることは指摘されています。これらの詳細については、以下の記事をご覧ください。
世の中では、天才とされる人たちに注目が集まり、ビジネスになっています。例えば、「天才〇〇」の著作や関連の啓発本から、テレビ出演、講演会、グッズ、さらには「〇〇の天才を生んだ母親」の著作や講演会にも広げられています。また、「天才を育てる幼児教育」もよく見かけます。
しかし、先ほど触れたように、天才はそう仕立て上げられ、私たちが思い込んでいるだけです。これ自体、良くも悪くも、私たちの文化です。つまり、天才とは、絶対的な存在ではなく、相対的にたまたま1位になった人を私たちの社会の文化によってそう意味付け価値付けた単なる記号であり、称号であり、フィクションであると言えます。これが、「天才ビジネス」のからくりです。そして、これは、「天才ビジネス」にとって不都合な真実でしょう。
もちろん、天才として祭り上げるこのフィクションを1つの文化として楽しむことはできます。しかし、「天才」という言葉に踊らされて、むやみにビジネスに利用されないように、私たちは賢明になる必要もあるでしょう。これは、権威や希少性に振り回されないようにするのと同じです。
実は、ギネスブック自体も、「最も売れている年刊本」として自らギネス世界記録に認定しています。けっきょく、ギネスブック自体も「1位バイアス」を利用して、自らの売り上げにちゃっかり貢献して、ビジネスとして回っているわけです。
この記事の最初に問いかけた質問は、「世界一になる理由は何があるんでしょうか?」「2位じゃダメなんでしょうか?」でした。この答えは、私たちが文化的に楽しむためと言えるでしょう。そして、2位じゃダメではまったくないのですが、私たちが2位じゃダメと思う原因は「1位バイアス」「天才ビジネス」に惑わされているからと言えるでしょう。