連載コラムシネマセラピー
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
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・宗教体験
・幻聴
・被害妄想
・知覚の異常
・思考の異常
・宗教妄想
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みなさんは、「神のお告げが聞こえる」「私たちは罰を受けている」と説かれるとどう思いますか? これらのいわゆる預言や神罰の境地、つまり宗教体験は、古くから世界各地で共通して見られます。一方で、率直なところ、周りで誰も話していないのに声が聞こえる幻聴や、周りから何かされているのではないかと思い込む被害妄想と何が違うのでしょうか?
この答えを探るために、今回は、映画「ミスト」とドラマ「ザ・ミスト」を合わせて取り上げます。この2つの作品は、原作が同じで、展開もかなり似ていますが、登場人物の設定が違い、ドラマの方がより複雑な人間関係になっています。ただ、この2つの作品に共通して一際存在感を発揮していくキャラクターがいます。映画では「カーモディさん」、ドラマでは「ナタリー」です。
今回は、この2人に焦点を当て、精神医学の視点から、宗教体験と幻覚妄想は表裏一体であるわけをご説明し、統合失調症という心の病の二面性についていっしょに考えてみましょう。
なお、今回は、このシネマセラピーの記事において、映画「ミスト」の後編になります。前編「宗教の起源」と中編「マインドコントロールのメカニズム」については、以下の記事をご覧ください。
あるのどかな田舎町に突然立ち込めた濃い霧(ミスト)。その中に入ってしまった町の人たちは、次々と大けがをして死んでいきます。何とかその霧から逃れた人たちは、大きな建物の中に避難しますが、そこに閉じ込められてしまいます。彼らは、わけが分からず恐怖に震え、途方に暮れるだけだったのでした。そんななか、映画ではカーモディさん、ドラマではナタリーが、信仰心によって存在感を発揮していきます。
まず、この2人の言動から、宗教体験が幻覚妄想である理由を大きく2つ挙げて、精神医学的にご説明しましょう。
①神のお告げが聞こえる―幻聴
映画版のカーモディさんは、異常事態の当初、トイレの中で涙を流しながら神と対話していました。彼女は、「どうか私にこの人たちを助けさせてください」「あなたの言葉を説かせてください」「光で導かせてください」「悪人ばかりではないはずです」「あなたの赦しによって何人かは救うことができるはずです」「天国の門をくぐれるはずです」「1人でも救えたら、私の人生に意義が見いだせます」「私の役割を果たせるのです」「そしてあなたのおそばに行ける」「あなたのご意志を全うできるのです」と語ります。
ドラマ版のナタリーは、アリやクモを神格化して、会話しているようなシーンが描かれていました。
1つ目の宗教体験は、神のお告げが聞こえ、神と対話することです。これらは、宗教的には預言と見なされますが、精神医学的にはそれぞれ命令幻聴、対話性幻聴が当てはまります。なぜなら、周りで誰も話していないのに声が聞こえてくるという知覚の異常としては、このような宗教体験も幻聴もやはり区別できないからです。
②私たちは罰を受けている―被害妄想
映画版のカーモディさんはやがて、周りの人たちに「真実が見えない?」「私たちは罰を受けている」「神のご意思に背くことをしているから」「禁じられた神の古き掟を破っているから」「月面を歩いたり、原子を分裂させたり、幹細胞の研究や中絶!」「生命の神秘を破壊する」「神だけに許された世界への冒涜よ!」「神の審判が下ったのよ」「地獄の魔物が解き放たれた」「燃える星が天から落ちてきた」などと熱心に説き続けます。ちなみに、この神罰の一連のセリフは、9.11テロの直後にキリスト教原理主義の高名な総帥が言った言葉のパロディです。
ドラマ版のナタリーは、以前に森林警備隊員から聞いた話を語り出します。「クマの母親が3頭の子グマを生んだの。でも、その母クマはそのうちの2頭を殺したの。彼はショックを受けたわ。そして、すぐに残りの1頭を保護したの。でも、あとから分かったのは、母グマはその2頭が感染症にかかっていたのを知っていたからなの。残りの1頭の命を守るためだったの」「この霧の目的はそれと同じ」「人間も自然の一部よ」と確信して言っていました。
2つ目の宗教体験は、私たちは罰を受けていて、それはもともと人間は罪深いからと思い込むことです。これらは、宗教的には神罰や原罪と見なされますが、精神医学的にはそれぞれ被害妄想と罪業妄想が当てはまります。なぜなら、合理的な根拠なく思い込んでしまう思考の異常としては、このような宗教体験も妄想もやはり区別できないからです。
なお、「罰を受ける」根拠を「人間の存在が罪(原罪)だから」としている点では、後付けの関係妄想とも言えます。つまり、すでに問題が起きているという状況(被害)が先であることから、被害妄想がこの宗教体験の本質であると言えます。