【2ページ目】2013年1月号 映画「告白」【その1】なんでいじめるの?―同調の心理
横並び意識―均一化
ある女子が、クラスのある男子にうっとりしていると、別の女子から「何、見てんの?」「今、見つめてたでしょ」と言われ、その女子は「見つめてないよっ」と言い返し、冗談交じりの言い合いになっているシーンがあります。他愛のないやり取りのようですが、不気味にも見えてきます。その理由は、ノリという一体感を維持するために、お互いがお互いの動きに敏感になり(対人感受性)、お互いのことを知りすぎてしまい、心の間合い(心理的距離)が近すぎることです。この濃厚な人間関係により、「みんな仲良し」という横並び意識(均一化)が強まっています。
熱血教師―反知性化

新学年になり、新しい担任教師ウェルテルが登場します。彼は、生徒と一定の距離をとる森口先生とは真逆のタイプで、初対面から熱く馴れ馴れしく語ります。「僕はまっさらな気持ちで君たちに向き合いたい」「みんなどんどん僕にぶつかってきてくれ」「僕ががっちり受け止めてやる」「みんなの兄貴に僕はなりたいんだ」「僕はちゃんとみんなを見てるから」と。そして、やたらと「みんなで」と言い、一体感を強調します。
これは、典型的な体当たり主義(反知性主義)の熱血教師です。そこには、熱血というノリによって自分の生き様を体当たりさせれば、クラスが一体となって何とかものごとは解決するものだという楽観的で短絡的な発想が見え隠れします。
彼なりに、良かれと思い一生懸命にやっているようですが、空回りして痛々しく滑稽に描かれています。彼は、実は生徒の話に耳を傾けることもなく、自分の考えを一方的に説き伏せ、調子のいいことばかり言い、生徒とのかかわりには中身がないのです。
不登校になった少年Bに対しても、「心の病」としてそれ以上の原因を突き止めようとはしません。今後の具体的な方針や対応策について関係者と相談しようとはしません。ただ大声で励ますだけなのでした。こうして、「まっさらな気持ち」で生徒に体当たりするかかわりは、心の間合い(心理的距離)が取れないことで、逆に少年Bを追い詰める結果にもなっていました。そもそも彼は、前任の森口先生からの生徒たちの申し送りを一切読んでおらず、そもそも前任が森口先生だということも知らなかったのでした。後に明かされる森口先生の指示による操作の影響があるにしても、やはり彼は、おめでたい熱血教師なのでした。
彼は、徹底的な下調べや教育の方法論によって生徒と向き合おうとはしていません。彼によって、生徒たちがものごとを理性的に考えにくくする雰囲気が作り出されています(反知性化)。そして、この雰囲気こそが、一体感に隠されたクラスの横並び意識の下地になっているのでした。
学校文化―平等主義、協調性、管理教育
森口先生が、1人1人の生徒のがんばりを評価していたのに対して、ウェルテルは平等な目を持つと言い、生徒を個別に評価しません。生徒の横並び意識を生み出すこの平等主義は、現在の学校文化そのものです。実際に、昔と違って今は、学業成績優秀者は公表されません。運動会では競争で順位をつけないのです。
学校は、平等主義をもとに、「みんな仲良し」という協調性を強調します。協調性は、もちろん、共感性や信頼感を育む教育の意義はあります。かつて高度成長期に求められた均質な労働力を育む役割を果たしました。
しかし、協調性は、同時に、制服や髪型の校則により「○○らしさ」という画一性や、「学校に歯向(はむ)かわない良い子」を生み出す管理教育が徹底される結果にもなりました。この点で、最近、運動会で流行っている、競技者全員が同じ動きを披露する「集団行動」という種目は、美しくもあり、気持ち悪くもあります。それは、某独裁国家の軍人たちの足並みの揃った行進を連想してしまうからです。