【4ページ目】2025年3月号 ドキュメンタリー映画「小学校~それは小さな社会~」【その1】当たり前すぎて気づかなかった!?―学校教育の良さと危うさ

③吊し上げをする―スケープゴート

1年生の生徒たちが音楽会の練習をするシーン。ある先生は生徒たちに「練習してる時に、心が揃い、音が揃うようになってきていると思います。練習に来ない人は、その心が揃うのを壊しています。台無しです」と練習の大切さを強調します。「台無し」という言葉に語気を強めており、何やら嫌な予感がします。すると、やはりです。先ほどにも登場した1年生の女子は、シンバル担当に選ばれていたのですが、なかなかうまくできていないようで、彼は心配します。彼からの「練習に来てね」という手紙が彼女の靴箱に添えてあるシーンが映し出されます。しかし、彼女は来ません。

そして案の定、彼女はみんなで演奏の練習をするなかでミスを繰り返します。すると、彼は「タイミング違ったね」「そこ(のタイミング)あったっけ?」「あなた一人しか(シンバルは)いないんです。その責任があなたにあります」ときつい口調で問い詰めます。彼女は「楽譜忘れた・・・」と小声で答えるのですが、彼は「ちょっと待って、今楽譜ないとできないよって人いますか? 手を挙げてごらん」と他の生徒たちに聞きますが、誰も手を挙げません。そして彼は「なんでみんな楽譜なくてもできるんですか?」とあえて生徒たちにたずねます。すると、生徒たちが「練習しているから」といっせいに答えます。先生は「そうだよね。・・・一生懸命練習を続けてるんだよね。それをあなたはやってるんですか?」と言って迫ります。彼女が泣き出すと、いったん休憩させるかと思いきや、なんと彼は「 オーディションに受かったらそれでおしまいなの? それがゴールなの?・・・泣いたら上手になるの?・・・どうしますか? 変わってもらいますか? どうしますか?」と畳みかけます。そして、この一連のやり取りをみんなが静かに見ています。そして、彼女は半ば無理やり練習の約束をさせられて、彼女がまだ泣いているのに非情にもそのまま演奏の練習を再開してしまうのです。もちろん、彼女は演奏どころではなく、他の生徒たちの楽器から奏でられる音の中に、彼女の泣き声が響いているのでした。

彼女があまりにも気の毒で、私たちは胸が張り裂けそうな思いになります。と同時に、これは俳優たちが演技したフィクションではなく、実在する人物たちが実際にやり取りしたドキュメンタリーだったと我に返ると、この先生のやり方には疑問が沸いてきます。一般社会の職場で、上司が部下にこれをやったら明らかなモラルハラスメントで、一発アウトです。しかし、子どもが相手なら、指導という建前でやっても良いと考えているのでしょう。

さらに、巧妙なのは、その翌日くらいあと、再度のみんなでの練習の時、彼女は演奏するのですが、練習が終わった後、先生は彼女に駆け寄り、笑顔で「できたじゃん!あなたができるところはちゃんと音が鳴ってたよ」と今度は笑顔でベタ褒めするのです。彼女はその間に練習をしておらず、しかもこの時は楽譜を真横に置いていたのにです。彼の褒め叱りには、実は一貫性がないのでした。最初に叱ったのも、あとに褒めたのも最初から予定していたように見えてきます。予定していなかったとしたら、彼は単なる気分屋で、先ほどと同じくモラルハラスメントであり、それはそれで問題です。最も問題なのは、どっちにしても、結果的に彼女は見せしめのために利用されたということです。つまり、「練習しないとこうなるぞ」という他の生徒への裏メッセージです。

また、別のワンシーンでは、1年生の教室で、先生がある生徒を教壇に立たせ、「姿勢係」の役割を与えていました。彼に教室に座っている生徒を名指しで「姿勢がいいのは〇〇さんです」「姿勢がいいのは△△さんです」と無邪気な笑顔で言わせるのです。この取り組みは、姿勢を良くしようとする意識を高め、一見良いように思われます。しかし、今度は別のシーンで、同じく1年生の生徒たち数人が休み時間に教室から校庭で遊んでいる他の生徒たちを見下ろして、「あ、マスクしてない。」「よくないねー」「よくないねー」と言い合い、自主的に「マスク警察係」として審判を始めるのです。これは、生徒が生徒を監視する、相互監視です。仲間同士なのに監視役という権力を与える指導によって、仲間外れを見つける練習をさせてしまっていることが分かります。

再び6年生の卒業式の練習のシーン。生徒たち全員が体育館のステージの階段状の足場に並ぶ時、混んでて身動きが取りづらく、きれいな整列にはなっていないようです。その時、ある先生が全員に向けて「きょろきょろしてる人、目立ちます」と注意します。これは、「保護者席から見て1人だけ違うとかっこ悪いよ」という否定的なニュアンスがあります。ここにも、先ほどの「普通に」と同じように「みんなと違う人=目立つ人=良くない」という仲間外れにする裏メッセージが読み取れます。

先ほどの靴箱のシーンにしても、靴をきれいに入れていない生徒は、悪目立ちすることになります。つまり、これらの取り組みによって注意された生徒は、残りの生徒たちを引き締めて学校の規律を高めるための「生贄」と言えます。

3つ目の危うさは、つるし上げをするスケープゴートです。これによって、上の立場の人(権威)に従わない人や周り(主流秩序)と違うことをする人を差別する意識が高まり、見た目や考え方の違う人を排除しようとする「いじめ」(排他性)が育まれます。これまであれほど学校ではいじめ対策をしてきたのに、実は日本の教育文化そのものがいじめの温床であったという衝撃の事実です。

皮肉にも、教員のための研修に招待された大学の教授が、「例えば『ビー玉貯金』が有名です。クラス全員が忘れ物をしなかったら、大きなビー玉がもらえる。でも、もらえなかったら、『おまえのせいでこうなった』というふうになる。実はいじめの原因をつくるのは教員だった」「我々にも責任がある」と説明し、連帯責任の危うさを講義していました。確かに、集団として罰(正の弱化によるオペラント条件づけ)を与えるというあからさまな連帯責任はなくなりました。しかし、靴箱、演奏会の練習、「姿勢係」(相互監視)などのエピソードを見ると、集団としてご褒美(正の強化によるオペラント条件づけ)をもらえない可能性がある点で、これらは「ビー玉貯金」と同じように指示に従ってない人を悪目立ちさせ全員に対して責任を感じさせる新手の連帯責任と言えます。

つまり先生たちは、すでに研修で危ういと指摘されている連帯責任を利用した取り組みを、相変わらずやり続けているという矛盾に気づいていないのでした。

それでは、どうすれば良かったのでしょうか? 例えば、音楽会の先生は、いきなりみんなの前で叱責するのではなく、まずその女子を個別に呼んで気軽に話し合うことです。そして、楽譜を見れば間違えないなら、まずは楽譜を見て演奏するよう本人に合わせた指導をすることです。確かに、全員が楽譜を見ないで完璧な演奏をすることはすばらしいことです。しかし、いくらオーディションで選ばれた責任があるからと言って、それをプロの大人ではない1年生の子どもに強要するのは酷です。結果的には、彼女は褒められた気分の良さから、その後に自主的に練習をするようになり、演奏会の本番を見事まっとうして、「少女の成長物語」という美談になっていました。そして、この先生は優秀な教師と評価されるのでしょう。

しかし、彼女のようにがんばれる生徒、できる生徒ばかりではありません。もしも、もともとがんばれない生徒やもともとできない生徒にこんなやり方を繰り返していたら、どうなるでしょうか? 不登校のリスクが高まるのは明らかでしょう。

また、「姿勢係」などの相互監視は即廃止です。靴箱のシーンでも触れたように、良い姿勢はお勧めすべきことではありますが、競わせるものでも取り締まられるものではないからです。この多様性の時代、インクルーシブ教育の時代、もしも脳性麻痺の生徒がいたらどうなるのでしょうか? 先生たちは明らかに時代遅れなことをやっています。

卒業式の練習のシーンでは、せめて「真っすぐに向いているとすてきだよ」とポジティブに言うことです。ただ、スケープゴートのリスクを考えると、そもそも卒業式でステージの上に生徒全員を整列させることをはじめとして同調圧力を高める取り組み自体を止める時代に来ているでしょう。

なお、スケープゴートの心理の詳細については、以下の記事をご覧ください。


>>【スケープゴートの心理】

ここで、再度誤解がないようにしたいのは、これまで取り上げた教師たちの指導方法には改善点が多々ありますが、教師個人は批判されるべきとは思われません。なぜなら、実は生徒たちだけでなく教師たちもまた、この日本の危うい教育文化から抜け出せない学校という職場環境に身を置いているからです。それは、いったいどういうことでしょうか?


>>【その2】なんで生徒も先生も楽しくなさそうなの?じゃあどうすればいいの?―「ブラック教育文化」