連載コラムシネマセラピー
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーション、メンタルヘルス、セクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。
これまで、マインドコントロールにかかる心理を環境因子と個体因子に分けてまとめました。ここからは、マインドコントロールをかける心理(テクニック)を考えてみましょう。これは、カリスマ性の条件(個体因子)とも言えます。カーモディさんをモデルにして、これらの条件を考えてみましょう。
カーモディさんは、「今夜、闇と共に怪物が襲ってきて、誰かの命を奪う」と予言します。そして、結果的に、的中してしまいます。すると、人々は、カーモディさんに特別な能力があると信じ込んでいくのです。カーモディさんは、思いのほか、人々が自分の言うことを信じるようになったと察知し、すかさず「分かったでしょ?」「これで私の言うことを信じるわね?」と勢い付いていきます。
このように、奇跡の演出(神秘性)はカリスマ性の条件です。カーモディさんは、厳密には奇跡を起こしたのではなく、いつもの口癖がたまたまその状況に当てはまってしまっただけです。しかし、彼女はここぞとばかりにそのまぐれの状況を巧みに演出しています。もちろん、カーモディさん自身も自分の「奇跡」に酔いしれて信じ込んでいます。
奇跡体験とは、今まで不可能であると思っていたことが可能であると見せつけられることです。つまり、今まで心の拠りどころだった信念(認知パターン)がひっくり返ってしまう出来事です。この点で、奇跡体験も一種の心的外傷体験(心的外傷後ストレス障害、PTSD)です。先ほどのマインドコントロールの危険因子として述べたように、奇跡体験は、脳の書き換えが起きやすくなる状態を作り出し、その後の刺激(情報)を受け入れやすくします。
例えば、生存確率の低いがん患者が、手術や移植などによって奇跡的に完治した後、社会貢献をしたり信心深くなったりするなど人が変わったように自己成長していくことをよく耳にします(外傷後成長、PTG)。これは、「もう近いうちに死ぬ」という心的外傷体験の後に、完治するという奇跡体験をして、「生かされた」「助けられた」という事実(刺激)が、強く脳に刻み込まれ、新しい価値観として重みを帯びるからであると考えられます。また、宇宙から生還した宇宙飛行士が、後に少なからず宗教にはまるというエピソードも、宇宙空間という神秘的な極限状況が心的外傷体験や奇跡体験として脳に作用している可能性が考えられます。
カーモディさんは、聖書を片手に威厳を持って、「煙の中からイナゴの群れが地上へ」「それらのイナゴには地上のサソリと同じ力が与えられた」「神殿から響く声が7人の天使に言った」「さあ、行くがいい」「神の怒りを地上に注ぐのだ」と言います。これは、スーパーマーケットに飛んできた巨大な昆虫を、聖書の「神の怒り」によって遣わされた「サソリと同じ力」の「イナゴ」に重ね合わせています。つまり、自分たちの生死は、聖書によってすでに運命付けられているとほのめかしています。
そして、「黙示録第15章」「神殿は神の栄光と力による煙で満たされ」「7人の天使の7つの災いが終わるまで誰も神殿の中に入れなかった」「神を迎え入れる準備をすべきよ」「世の終わりは、炎ではなく、霧と共に訪れるのよ」と訴えかけます。その後、「出てはだめよ」「私が許さない」「神の意思に反する行為よ」「まだ分からないの?」「私が正しいことは何度も何度も証明した」「私が預言者だと示したはず」と言い放ちます。自分が、預言者、つまり神の言葉を預かる者であり、自分の言葉が神の言葉を代弁していると言っています。
このように、聖書や神託などによる神格化(権威付け)はカリスマ性の条件です。私たちは、権威的な「答え」にすがってしまう弱さがあります(依存性)。権威は被暗示性を高めることが分かっています。例えば、高名な専門家に診てもらったというだけで、病気が良くなった気になる患者はよくいます。その理由は、原始の時代から、権威を動機付ける崇拝の心理が私たちには残っており、その心理はくすぐられやすいからです。これは前号で解説しました。崇拝の心理は感情的であるため、理性的によくよく考えればおかしなことも納得してしまうのです。
そもそも聖書の内容を象徴的な意味として解釈すれば、どんな状況にも強引に当てはめることができます。そして、あたかも聖書がその現実を予言しているかのように人々に思い込ませることができます(バーナム効果)。これは、誰にでも当てはまりそうな質問をして心を読まれていると錯覚させる占い師のテクニックにもつながります(コールドリーディング)。
カーモディさんは、怖い顔をして「怪物が哀れな若者をさらった」「霧の中にいる怪物を疑うの?」と声高に言います。デヴィッドの仲間のある女性から「(あなたのせいで)子どもたちが怯えているわ」と言われても、「怯えるべきよ」とむしろ恐怖を煽っています。その後、「哀れな娘は死んだ」「青年は焼け死んだ」と声高に叫ぶカーモディさんをその女性は見て、「みんなを煽動している」と不安がっています。デヴィッドの仲間の1人は、「怯える連中はカーモディさんに従う」と言います。そして、その通りになります。人々は教祖のようなカーモディさんを信奉し、従順になっていきます。
このように、集団のメンバーへの恐怖の煽動はカリスマ性の条件です。集団のメンバーは、恐怖によって感情的になりやすくなり、理性は弱まり(脆弱性)、原始の時代の宗教的な心、つまり信じ込む心が強まります。そして、指導者に対する崇拝の心理が高まります。
実際に、社会情勢が混沌として不安定であったり、社会の価値観が揺らいでいたりして、人々が不安を抱えている時こそ、救世主やヒーローなどのカリスマが現れています。カリスマは、その状況を強めるために、さらに人々の不安感を煽るのです。弱みに付け込むのです。すると、カリスマの地位が盤石なものになります。
ヒトラーはカリスマ性があったと言われています。それは当時のドイツの政情が不安定であったからだという分析がなされています。いつでもどこでも世の中が不安定になれば、第2のヒトラーが現れるリスクが高まるということです。日本でも景気が悪かったり、政局が不安定であればあるほど、強いリーダーシップを持ったカリスマ性のある政治家が目立っていきます。
裏を返せば、世の中が平和で安定している時は、カリスマは現れにくいと言えます。なぜなら、何とかしてくれる、奇跡を起こしてくれるカリスマをそもそもその時の人々が求めていないからです。つまり、カリスマが私たちの目の前に現れるかどうかは、社会の安定感を計る1つのバロメーターになります。カリスマが現れない時代や集団こそ、安定した健全な社会であり組織であると言えます。つまり、社員全員が崇拝するカリスマ社長は、マスコミでもてはやされますが、果たしてその会社は本当に大丈夫なのかと疑問を持ってしまうということです。
カーモディさんは、人々に「あなたたちは罪深い人生を送ってきた」「怪物が襲ってきた時にあなたたちは神に叫び、この私の導きを求めるのよ」と断定します。その確信に満ちた態度を見て、デヴィッドの仲間の男性の1人は、「(カーモディさんは)自分は神と話せると信じ込ませている」「みんな解決策を示す人に見境もなく従ってしまう」と冷静に言います。
このように、確信的に言い切ること(断定)はカリスマ性の条件です。聖書や神託などの権威付けを基に、断定的で分かりやすく、繰り返されるカーモディさんの同じ「答え」に(視野狭窄)、弱っていて何かにすがりたい人々は飛び付いてしまうのです(依存性)。そして、何の疑いもなく信じ込んでしまうという盲信的で狂信的な原始の時代の心が発動します。
私たちの日常生活でも、自信満々で断定的に話す人を見かけます。かつて芸能界でも、「地獄に落ちるわよ」という決めゼリフを言い、相手を追い込んでいく人がいました。そして、このような場合、「助かりたければこうしなさい(言うことを聞きなさい)」と分かりやすい解決策が示されます。相手からは、このような人は救世主のように見えるのでしょう。
そもそも救世主の役割を突き詰めて考えれば、おかしなことに気付きます。本当に救世主なら、黙って救済すれば良いだけの話です。しかし、救世主は、救いを約束して条件を提示するという形式を常にとっています。
実は、断定のテクニックは、世の中に溢れています。例えば、ビールのCMです。「売り上げナンバーワン」という事実をアナウンスするCMは理性的です。一方、「このビールは本物だから」とタレントに言わせるCMはどうでしょうか? 「このビールだけが本物、他は偽物」というふうにも聞こえないでしょうか? そもそも「本物」とは何でしょうか? 「本物」の根拠は何でしょうか? 明らかにされていないことが多すぎです。つまり、言い過ぎなのです(過度の一般化)。
また、従来の心理学の本においてよく見かける記載の1つに「日本の男は未熟だ」という表現があります。しかし、どれくらい割合の「日本の男」なのか? それでは何を持って「成熟」とするのか? 定義や論理性が弱く抽象的になってしまい、読者には言い当てているように思い込ませてしまいます(バーナム効果)。これが、従来の心理学が人々に宗教のような胡散臭さを匂わせてしまっている理由でもあります。
デヴィッドが、気を失ったように寝入っている中、カーモディさんは、「大地はムチやサソリで私たちを懲らしめる」「そして大地は忌まわしい汚物を吐き残忍で汚れた恐ろしい魔物が解き放たれた」「魔物を食い止める方法は!?(ない)」「どこに隠れても奴らから身を守れない」と煽動的にそして断定的に延々と語り続けます。そして、「償い」という言葉を繰り返します。目を覚ましたデヴィッドは、「あの声は夢だと思った」と言います。仲間の男性は「カストロみたいに休まずしゃべり続けているよ」とあきれたように言います。
このように、同じ言葉を繰り返し吹き込むこと(反復)はカリスマ性の条件です。煽動して断定した上に、反復することで、刺激(情報)が刷り込まれやすくなります。これは、さきほどマインドコントロールにかかる心理でも触れたように、情報が途絶えて刺激に飢えている心理状態(感覚遮断)では、与えられた特定の刺激(情報)が繰り返し吹き込まれることにより(感覚過剰)、自ら考えようとしなくなり、その刺激からの影響力が強まっています(視野狭窄)。
かつてのカストロやヒトラーも、同じ言葉を延々と繰り返しています。逆に、この反復の手法は、CMなどでキャッチフレーズとして歌やリズムに乗せて当たり前のように使われています。また、良いスピーチやプレゼンも、このようなキーワードを繰り返すことが勧められています。
カーモディさんは、「今こそ立場を選ぶべき時」「(生け贄をして)救われる者か、(生け贄をしないで)呪われる者か」と人々に訴えかけます。生け贄をするかしないかという究極の選択を人々に迫ります。しかし、考えてみると、おかしなことに気付きます。それは、神の存在は前提であり既成事実となっています。そして、生け贄以外で助かる可能性に目を向けさせないようにしています。
このように、他のことへの注意を削ぐために二択に持ち込むこと(ダブルバインド、二分思考、白黒思考)はカリスマ性の条件です。人々を二者択一することばかりに一生懸命にさせてしまうのです。これは、特に迷っている時や弱っている時に効果が高まります。迷いがない時には効果は乏しく、逆に強引に思われて反感を買われやすくなります。
もともと私たちは、この心理にとても陥りやすいです。例えば、恋わずらいで、「好き」「嫌い」と花びらを1枚ずつとっていき、最後にどっちが残るかドキドキするというのは古典的です。情緒不安定な人(情緒不安定性パーソナリティ)は、初対面で「大親友か絶交か」という極端な対人関係を築きがちです(理想化とこき下ろし)。恋わずらいにせよ情緒不安定にせよ、本来は大好きでも大嫌いでもなく、ほどほどの好意を持つことがスタートラインです。また、シェークスピアのハムレットの「やるかやらないか?それが問題だ」という名ゼリフも有名です。「生きるか死ぬか」「勝つか負けるか」「良いか悪いか」などもよく耳にします。これらは、その究極の選択肢だけに囚われてしまい、その他の選択肢への注意が削がれています。
世の中では、相手に何かを決めさせたり心を動かすためのテクニックとして、この心理が利用されています。例えば、CMのキャッチコピーです。「ほんのり甘い味とほろ苦い味のコーヒーが新発売!ぜひお試し下さい」と「ほんのり甘いコーヒーとほろ苦いコーヒー、自分はどちらを選ぶ?」を比べてみれば、その違いが分かります。後者は、「甘いのと苦いのとどっちかな」という思考が働き、コーヒーを飲むことをすでに前提としています。逆に言えば、コーヒーを飲まないという選択肢には注意が向きにくくなります。
また、次の2つのデートの誘い文句の違いはどうでしょうか? 「映画か遊園地か行かない?」と「映画と遊園地だったら、どっちに行きたい?」です。後者は、デートに行くことをすでに前提にしています。デートに行かないという選択肢に注意が向きにくくなります。
車のセールスにおいても、車を買うかどうかは置いといて、「色は、赤と白のどっちがいいですか?」「ナビは付けますか?」などと次々とオプションを勧めています。これは買うことが前提で話を進めることで、買った気にさせ、買いやすくさせています。
それでは、子どもに宿題をさせたいお母さんは、どちらの言い方の方が子どもを宿題する気にさせそうでしょうか?「宿題しなさい」でしょうか? それとも「宿題はおやつの前にする?後にする?」でしょうか? もうみなさんはお分かりだと思います。
最近の選挙では、公約を1点に絞るという手法が用いられています(ワン・イッシュー選挙)。これもまさに、「○○について賛成か反対か」という分かりやすい一大テーマに注意を向けさせて、その他の困難な政治課題には注意を向けさせないという意図がありそうです。
カーモディさんは、説教をする中、ある男性を自分に引き寄せ、「今夜、あなたは神の顔を見た、そうでしょ?」「そうです、彼は神の顔を見たのです」と讃(たた)えます。そして、周りからは拍手が沸き起こります。すると、信者になったばかりのジムは自分もカーモディさんに認められたいと思い、必死になります。そして、デヴィッドたちと軍人のヒソヒソ話を聞き付け、「こいつら(軍人たち)が災いをもたらした!」「神の怒りを呼び覚ましたんだ!」と叫び、1人の軍人をカーモディさんの前に差し出すのです。
このように、メンバーの格付け(序列化)はカリスマ性の条件です。賞賛されたメンバーは、仲間であるという承認欲求が満たされ、集団への忠誠心や連帯感が強まります(崇拝)。また、賞賛されていないメンバーは、賞賛するメンバーを英雄視する一方、欲求不満となります。ジムのように何とか認められるため、裏切り者を見つけ出すなど手柄を挙げようとします。
この賞賛や逆の無視(放置)が気まぐれでなされることも、カリスマ性を高める要素です。そうすることで、メンバーたちはカリスマの顔色をますます伺い、この不安定な状況を解消したいと思い、言いなり(依存的)になっていきます。これは、ちょうど夫からDV(家庭内暴力)を受ける妻の心理に重なります。
マインドコントロールにかかる環境因子の1つである乏しいソーシャルサポートの段落でも触れましたが、現代は、絆や連帯感が希薄になっています。それだけに、この序列化の手法に私たちが乗りやすくなっていると言えます。
実際のカルト宗教集団では、すでに入信している信者たちが、入信のための見学者に「愛しています」と言い続けます。これは「愛情爆弾」と呼ばれており、口先だけと思っていても、悪い気がせず、やがて同調の心理が刺激されて、見学者は、周りの信者にとって特別な存在であると錯覚してしまうのです。そして、入信する意思をますます固めてしまうのです。
これを商業的に利用していると思われる例もあります。日本ではあまり見かけないようですが、韓流スターなどの海外のアイドルは、ファンに向かって真顔で「愛しています」と言い切り(断定)、ファン心理を高めています(崇拝)。ファンクラブの特待や優待の仕組みも、この序列化の心理を巧みに利用しています。学校教育や組織の運営においても、表彰するという形で、序列化の心理は利用されています。
カーモディさんは、「魔物を食い止めるには?」「どこに隠れても奴らから身を守れない」「何が必要?」と人々に訴えかけます。すると、人々は一斉に「償い(贖罪)だ!」と口を揃えます。そんな中、ジムがこの異常事態の犯人として1人の軍人を差し出します。すると、カーモディさんは言葉巧みにこの軍人を「裏切り者のユダめ」と罵ります。
このように、集団にとって共通の目的(敵)を見い出すこと(スケープゴート)はカリスマ性の条件です。共通の目的(敵)とは、最初は、襲ってくる怪物だけでした。やがて、カーモディさんによってすり替えられた神への償いや裏切り者を見つけ出すことへと広がっていきます。共通の目的(敵)が増えることによって、集団はますます一体化して(同調)、カーモディさんのカリスマ性もますます高まっていきます(崇拝)。また、集団のメンバーが裏切り者を咎めることは、同時に、自分が裏切り者になることを強く恐れることにもなります。原始の時代から、共同体で裏切り者になると追い出されます。それは、死をも意味していました。つまり、裏切りを恐れるのは、私たちの根源的な心理です。こうしてお互いが目を光らせて相互監視する集団心理が生まれ、ますますカーモディさんの言うことを聞くようになります。
現代の学校社会もまた、この集団心理の縮図です。「いじめられたら教師や親に言いなさい」とのお決まりの呼びかけがあります。しかし、クラスにいじめがあるという事実を漏らせば、それはもはや裏切り者になります。だからこそ、傍観者はもとより、いじめ被害者は、裏切り者扱いされたくないため、教師や親にいじめの事実を言うわけがないのです。そして、その心理は、いじめ自殺へと追い込むほどなのです。教室で誰からも相手にされなくなる、自分の存在を認められなくなるという恐怖は、自分の命よりも重いととらえられてしまうのです。
かつてのヒトラーが、自らのカリスマ性を高めるために、何をスケープゴートにしたのかも歴史から伺い知ることができます。