連載コラムシネマセラピー

私たちの身近にある映画、ドラマ、CMなどの映像作品(シネマ)のご紹介を通して、コミュニケーションメンタルヘルスセクシャリティを見つめ直し、心の癒し(セラピー)をご提供します。

【1ページ目】2023年6月号 伝記「ヘレン・ケラー」【後編】ということは特別なことをしたからといって変わらない!?【幼児教育ビジネス】

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・意図共有
・認知能力
・連合学習
・行動遺伝学
・非認知能力(社会情動的スキル)
・モンテッソーリ教育
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特にまだ幼い子どものいるみなさんは、賢くさせるために何かしていますか? 幼児教室に通わせたり、知育動画を見させたり、ドリルを解かせたり・・・さらに、最近ますます注目されているモンテッソーリ教育を受けさせたり・・・ところで、その効果について考えたことはありますか? 効果はあるに決まっていると思い込んでいませんか? そして、やらせるだけで満足していませんか? 
今回は、前編で取り上げた象徴機能のメカニズムとその起源を踏まえて、子どもを賢くさせるためには賢くさせようと特別なことをしないという逆説のわけをご説明します。そして、幼児教育ビジネスの不都合な真実に迫ります。


>>象徴機能のメカニズムと起源

幼い子が言葉を覚えるために必要なことは?

前編での象徴機能の発達のプロセスや進化の歴史を踏まえると、幼い子が言葉を覚えるために必要なことが見えてきます。それは、前編でキーワードとなった意図共有、つまり、心が通じ合うことです。そのためには、日常生活の中で出会ういろんな人との自由な相互作用が必要です。「water」と発したヘレン・ケラーのように、実際に触れたり味わったりすることも含めて、五感を総動員して、生活の一部として体験することです。
つまり、言葉は、ただ話すために話すという目的そのものではなく、相手がいて楽しいから話す・そうしないと困るから話すという手段になっているということです。そして、インプットだけでなく、自由なアウトプット(意図共有)もすることではじめて身になるということです。

特別な幼児教育とは?

ヘレン・ケラーは、「見えない、聞こえない、話せない」という障害によって、サリバン先生による特別な教育が必要でした。発達障害の子どもにも、療育という特別な教育が必要です。一方で、特に障害がない子どもについてはどうでしょうか? 
例えば、難しい言葉や英単語を覚えたり、先取り学習を幼児教室、知育動画、ドリルなどで認知能力の特別なトレーニングをすることです。これらが特別であるためには、一般的な保育園での教育とは差別化される必要があります。しかし、実はこれらは、前編でご紹介した連合学習、つまり構造化されたパターン学習にすぎません。その場で楽しくなるような工夫はある程度されてはいますが、日々の生活の中で必要になることがありません。逆に言えば、もし必要になるのであれば、日常生活の中で学べば良いだけの話で、特別にはなりません。そもそも、幼児教育での構造化されたパターン学習は、禁止行為などのルールの学習に限定されます。つまり、これは、「water」と発する前のヘレン・ケラーや、絵文字や一方的に要求するための手話を学んだだけのチンパンジーと同じ状況です。
それでも、何かを学んだわけだから、それがその後に役に立つと考える方もいるでしょう。しかし、みなさんも薄々お気づきかも知れませんが、人間の脳は巧妙に進化していて、日常生活に必要ないものはどんどん忘れていくようになっています。
実際の行動遺伝学の研究では、認知能力への親の取り組みの違い(家庭環境)の影響度は、幼児期には35%とあるにはあるのですが、成人期になるにつれて20%と目減りしています。この詳細については、以下の記事をご覧ください。


>>認知能力への家庭環境の違いの影響

また、非認知能力(社会情動的スキル)が高まると唱える教育関係者もいます。しかし、これは、ヘックマンの研究(2000)を誤解したものです。この研究の対象となった幼児は、経済的な貧困層(幼児教育などの子育てが適切に行われていないネグレクトの可能性が高い家庭)に限定されています。一般的な家庭についてまで拡大解釈はできません。
なお、ヘックマンの研究の詳細については、以下の記事をご覧ください。


>>ヘックマンの研究

逆に、行動遺伝学の研究から、非認知能力への親の取り組みの違い(家庭環境)の影響度は、幼児期から成人期まで変わらずほぼ0%と推定できます。推定としたのは、非認知能力は、その評価のしづらさから、これ自体の行動遺伝学の研究が見当たらないため、代わりに最も近い概念である性格で置き換えたからです。それにしても、驚くべきことです。この詳細については、以下の記事をご覧ください。


>>性格への家庭環境の違いの影響

つまり、幼児期に特別な幼児教育として何かを、より早くやったからと言って、より多くやったからと言って、その効果は一時的で限定的でしかないわけです。特別な幼児教育と一般的な保育園の教育に最終的な違いがほとんどない点で、何かを学ぶ必要はもちろんありますが、それが特別な何かである必要はないわけです。少なくとも親子ともに楽しんでやっているのであればやる意味が見いだせます。しかし、将来的に意味があると盲信して親子ともに我慢してやっているのであれば、それは、時間とお金と労力の壮大な無駄使いであるばかりでなく、不幸を招いていると言えるでしょう。