【2ページ目】2025年3月号 ドキュメンタリー映画「小学校~それは小さな社会~」【その2】なんで生徒も先生も楽しくなさそうなの?なんで先生はそこまでしてしまうの?
②選べない―受け身になりやすい
彼は、「子どものままでいたい」と言っていました。一方で、6年生の教室で先生が「中学校に言ったら提出物が多くなる。このまま(提出物を忘れる状態)じゃかなり危険だぞ」と忠告していました。確かにその通りです。しかし、そんな脅し文句ばかり言われていると、彼のように、早く大人になって好きなことをしたい、つまり自分の生き方を選びたいという期待や夢が膨らみません。
2つ目の心理は、選ぶことができず、受け身になりやすいことです。この原因として、もともと受け身になりやすい気質(遺伝)が考えられますが、それと同じかそれ以上に校則や役割があまりにも多すぎる学校環境が考えられます。その1でもご説明しましたが、そんな学校環境のなかでの教師たちによるモラルハラスメントによって自主性(勤勉性)が育まれないために、自分からこうしたいというエネルギーが沸いてこず、ただ指示待ち人間になっているだけなのでした。心理学で、これは学習性無力感と呼ばれています。できないことを繰り返し強いられることによって、自分はできない(無力である)と学習してしまうのです。
また、「責任」という言葉が便利に使われて、「やるべきこと」が限りなく多いことも要因です。逆に、やりたいことを選び、やりたくないことを選ばないという選択の自由がほとんどなく、自由にしようとすると先生の言うことを聞いていないと見なされ、「偉そうだ」という圧までかけられます。
確かに、給食当番と掃除当番は、日々の社会的な活動として意味づければ「やるべきこと」でしょう。そして、学校の勉強ももちろん「やるべきこと」です。しかし、運動会、卒業式などの行事の練習を生徒全員が揃って数週間前からすることは、どうでしょうか? ある先生は「運動会の表現を通して、殻を破ってほしい」と言い、運動会の練習を必死に取り組む理由を力説していました。しかし、それは参加するという選択を自らしてこそです。強制されている限り、そうなる根拠はありません。つまり、実はこのような行事を強いるのには合理的な理由がなく、決して「やるべきこと」ではありません。
また、先ほど触れたように認知能力には個人差(遺伝的な違い)があるのに、授業内容はすべて画一的で詰め込まれています。レベル分けもほとんどされていないので、自分のレベルに合わない授業を選ばない(自分のレベルに合う授業を選ぶ)という選択肢がないです。あえて選ばないとしたら、すべてを選ばない、つまり不登校の一択しかありません。
よくよく考えると、本来の責任の意味は、自分が自由に選んだものに対して負うものです。自由と責任はセットです。つまり、最初の時点で選ばない権利(拒否権)があるはずです。自分で納得して選ぶからこそ、その行動への責任感が芽生えます。しかし、学校で使われる「責任」の多くは、一方的に押し付けられたタスクであり、選ばない権利がありません。しかも、その1でもご説明した通り、その多くが合理的な理由がないものです。つまり、学校で使われる「責任」の正体とは、生徒にとって「責任」という名の衣をかぶった「強制労働」であり、生徒を「奴隷」として逃がさないための都合の良い美辞麗句であったことが分かります。そんななかで、この真実にいち早く敏感に気づいて逃げ出した生徒が、不登校と呼ばれるのです。そしてそんな生徒たちは、学校には絶対に行きたがらないのに、学習塾や習いごとには抵抗なく行くのです。つまり、不登校の原因は、生徒だけでなく、このような学校の時代遅れのやり方にもあったというわけです。これが、不登校が増え続ける最大の原因でしょう。
なお、不登校の心理の詳細については、以下の記事をご覧ください。
そもそも責任とは、大人になるにつれて自由とセットでだんだんと増えていくものです。なぜなら、大人になる(自立)とは、自分の行動を自分で決めて、自由に生きていくことだからです。そこには、楽しみがあり喜びがあります。その自由に対して責任があるのです。つまり、小学生の時からむやみに、しかも一方的に押し付つけるものではないです。そんなことをしてしまったら、自分が自由に選んで責任を取るという大人になるための練習ができなくなります。
なお、実際に、国際比較において、日本人は最も不安になりやすく、最も受け身になりやすい国民性であることが分かっています。この詳細については、以下の記事のページの後半をご覧ください。